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東京地方裁判所 昭和59年(行ウ)70号 判決 1994年10月27日

原告

株式会社放送映画製作所

右代表者代表取締役

茨木寿男

右訴訟代理人弁護士

田辺満

角源三

被告

中央労働委員会

右代表者会長

萩澤清彦

右指定代理人

高田正昭

平澤守

山口俊夫

小林昇

江木眞

参加人

民放労連放送映画製作所労働組合

右代表者執行委員長

藤田充良

参加人

日本民間放送労働組合連合会

右代表者執行委員長

竹村冨弥

参加人

日本民間放送労働組合連合会近畿地方連合会

右代表者執行委員長

中村幸夫

右三名訴訟代理人弁護士

大錦義昭

戸田正明

柴原明夫

主文

一  被告が、中労委昭和五六年(不再)第三七号、同第四二号不当労働行為救済申立事件について、昭和五九年四月四日付けでした救済命令のうち、主文第Ⅰ項を取り消す。

二  訴訟費用は、原告と被告との間に生じた分は被告の、参加によって生じた分は参加人らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文第一項と同旨

第二事案の概要

一  大阪府地方労働委員会(以下「大阪地労委」という)は、参加人らが原告を被申立人として申し立てた大阪地労委昭和五二年(不)第一〇三号及び昭和五四年(不)第三一号併合事件につき、その申立ての一部を認容する別紙(一)(略)のとおりの救済命令(以下「初審命令」という)を発した。これに対する原告及び参加人ら双方からの再審査申立(中労委昭和五六年(不再)三七号事件及び同第四二号事件)を受けた被告は、別紙(二)(略)のとおりの命令を発した(以下「本件命令」という)。

本件は、原告が被告に対し、被告が発した右命令が、事実誤認、法令解釈の誤りにより不当労働行為に該当しない行為を不当労働行為としたものであるとして、その取り消しを求めた事案である。

二  争いのない事実等

以下の事実は当事者間に争いがないか、又は末尾括弧内記載の証拠により認められる。

1  当事者等

(一) 原告会社は、肩書地に本社を、大阪府吹田市千里丘に事業所(以下「千里事業所」という)をおいてテレビ映画・CMフィルムの制作等を営む会社であり、その従業員は、被告における本件再審査審問終結時九〇名である。

原告会社は、昭和四一年二月二四日、すでに倒産して閉鎖されていた株式会社毎放映画(以下「毎放映画」という)の所有する機材の一部を使用し、毎放映画の取締役兼テレビコマーシャル担当部長茨木恒弘(以下「茨木社長」という)が中心となって、毎放映画のコマーシャル関係の従業員ら一四名の協力を得て設立されたものであるが、同年三月中旬頃までに、株式会社毎日放送(以下「毎日放送」という)のテレビ映画制作を請け負っていた角掛全宏(以下「角掛」という)を中心とするグループ及び同じく毎日放送の報道・現像・編集を請け負っていた玉置喜作を中心とするグループの各構成員も雇い入れ、原告会社に合流したものである。原告会社の活動は、毎放映画と同様に毎日放送から発注される下請業務を中心として始まった。

(二) 参加人民放労連放送映画製作所労働組合(以下「組合」という)は、昭和四六年一二月一四日、千里事業所の作業員二二名が中心となって結成された、原告会社の従業員で組織される労働組合であり、参加人日本民間放送労働組合連合会(以下「民放労連」という)に加盟し、参加人日本民間放送労働連合(ママ)近畿地方連合会(以下「近畿地連」という)に所属しており、その組合員(以下「組合員」という)は、本件再審査審問終結時三五名である。

(三) 民放労連は、民間放送及び関連産業において組織されている労働組合の全国連合団体である。

(四) 近畿地連は、民放労連の下部組織として結成された民間放送及び関連産業の労働組合の近畿地方における連合団体である。

(五) 木下哲男(以下「木下」という)、山添哲也(以下「山添」という)、寺本真名(以下「寺本」という)、高橋昂(以下「高橋」という)、河合岑一郎(以下「河合」という)、西木隆(以下「西木」という)、西村幹彦(以下「西村」という)、田中義久(以下「田中」という)、間宮信男(以下「間宮」という)、柏渕孝(以下「柏渕」という)、田沢英二(以下「田沢」という)、清水邦夫(以下「清水」という)、林耕一(以下「林」という)、新家克己(以下「新家」という)、井上喜雄(以下「井上」という)、本多和子(以下「本多」という)、矢部欣之(以下「矢部」という)、賀川真樹(以下「賀川」という)、山口格平(以下「山口」という)及び柏原俊保(以下「柏原」という)は、本件再審査審問終結時、いずれも原告会社の従業員で、組合員であったものである。

2  原告会社と組合との関係

(一) 毎放映画の労働組合(以下「毎放組合」という)と毎放映画及び原告会社との間で、毎放映画の閉鎖が労働組合つぶしを目的とした偽装のものであるかどうかについて、大阪地労委において争われたが(昭和四一年(不)第五一号、昭和四三年(不)第五六号併合事件)、昭和四四年七月二六日、大阪地労委は、毎放映画の閉鎖を不当労働行為であると認め、また毎放映画と原告会社とを実質上の同一体と判断したうえで、毎放映画は組合員の解雇を撤回すること、原告会社は、被解雇者を原告会社において毎放映画の原職相当職に復帰させるとともに、その間の賃金を遡及して支払うこと等を内容とする命令を発した。

原告会社は、被告に対して右命令の再審査を申し立てたが、他方、毎放組合は、大阪地方裁判所に対して賃金仮払仮処分を申請し、その申請を認容する決定を得て、原告会社の機材を差し押さえた。

このような事態に直面した原告会社は、茨木社長の健康上の理由もあって、昭和四四年一〇月一五日、茨木社長の長男である茨木寿男を常務取締役として迎え入れ、同五〇年三月には同人を専務取締役に昇格させた(以下「茨木寿男」を「茨木常務」又は「茨木専務」という)。その間の昭和四六年一二月二八日、原告会社と毎放組合との間で、前記再審査申立事件において、左記の内容を骨子とする和解が成立した。

(1) 原告会社は、毎放組合の組合員である山添、河合、高橋、寺本及び木下(以下これらの者を「復帰者」という)を昭和四一年三月一日に遡って採用する。退職金、年次有給休暇の算定等に当たっては、同日以降就労時までの期間を通算する。

(2) 原告会社は、復帰者を昭和四七年三月一日から就労させる。その際、山添はテレビ映画部撮影課、河合は同部制作課、高橋は録音部、寺本はテレビ映画部編集課、木下はCM部にそれぞれ配属する。

(3) 復帰者の新賃金は、原告会社の賃金規程により支給するが、基本給の月額は、山添が五万一三〇〇円、河合が四万三五〇〇円、高橋が四万二〇〇〇円、寺本が五万二五〇〇円、木下が五万一三〇〇円で、また、職能給の月額は、山添が一万四五〇〇円(一一等級)、河合が一万五〇〇〇円(七等級)、高橋が一万二五〇〇円(九等級)、寺本が一万三五〇〇円(一〇等級)とする。以上のほか、調整金として、昭和四六年度に同社従業員に対し支給されたものと同一の基準により算定した月額を支給する。

復帰者は、右和解に基づいて昭和四七年三月一日から原告会社で就労し、同日、組合に加入した。

(二) 原告会社と組合との関係は、当初から良好なものではなく、昭和四七年以降両者の対立が年々激化していた。すなわち、

茨木社長は、昭和四七年二月九日、堂島本社周辺で組合の機関紙を配布していた復帰者の河合と高橋に対して、「お前らわしの顔がまともに見られ(ママ)か」などと発言した。また、組合は、昭和四八年三月二九日、賃上げに関する団体交渉の席上で茨木常務が「上積み回答のないのも回答だ」という趣旨の発言をしたこと等原告会社の団体交渉に対する態度に抗議し、ステッカーをセロテープで社内に貼ったところ、原告会社がこれを破り捨てたため、これを糊づけに変えると、原告会社から、ステッカーの糊づけは困るとの抗議を受けた。しかし、組合のステッカー貼りは、これ以後も争議の都度行われた。

昭和四九年一二月六日には、同年度年末一時金に関する原告会社と組合の団交が決裂したことから、組合員二十数名は、千里営業所内の報道現像室及び報道編集室に入り、機械の周りを取り囲んだり、入口付近に立つなどしてピケットを張ったが、翌七日、右ピケットに対し、両室の不法占拠により作業が停止に至ったとして警告書を発した後、職制一六人が実力をもって現像室のピケットを排除しようとした。

さらに、原告会社は、昭和五一年四月三〇日、賃上げに関する団体交渉の席上で、組合から組合員の管理職への昇格を要求された際、これを拒否したが、組合がその点について大阪地労委への救済申立をほのめかしたところ、茨木専務は「役所から言われてもやる気はない」旨の発言をしたこともあった。(<証拠略>)

(三) 原告会社は、昭和四七年から、夏期及び年末の一時金については、早期に解決した場合以外は、組合との妥結前に、交渉過程で原告会社の発表した回答額を非組合員に支給し、以後の組合交渉の結果前記回答額に上積みがあれば、組合員に最終妥結額を支給するときに、非組合員に既支給額との差額分を支給していた。

昭和五二年年末の一時金闘争の場合、組合は一一月一日に年末一時金平均九〇万円その他を要求したところ、原告会社は同月二〇日に平均二九万六九七五円を回答し、二日後の二二日に第一回の団体交渉が行われたが、解決するに至らず、組合は、年末一時金についてストライキ、ステッカー貼付、ピケットなどの一連の行動を繰り返し、初めて越年闘争を行った。そして、翌五三年一月、組合は昭和五二年年末一時金について大阪地労委にあっせんを申請し、当初、原告会社は自主解決をしたいとしてあっせんに応じなかったが、昭和五三年三月七日、あっせん案を受諾して、昭和五二年年末一時金交渉は解決した。右あっせん案には労使関係正常化のために双方が努力することをうたった条項があったが、その背景には、組合のストライキ通告が突入後二、三日以上経てからであることがほとんどであり、事前に通告することが皆無であったという事情があった。

原告会社は、組合の前記昭和五二年年末一時金闘争を機に、組合の無通告ストライキに対して組合に抗議文や警告書を出すようになり、組合がその受取りを拒否すれば、それを内容証明郵便にて送付した。

組合は、昭和五一年一一月一六日から同年一二月二二日までの間、年末一時金闘争としての、指名又は全員の時限ストライキを一八回繰り返し、また延べ四日に及ぶ全員ストライキを行い、昭和五二年六月六日から同年七月一一日までの間、夏期一時金闘争としての指名又は全員の時限ストライキを一二回繰り返した。

原告会社は、右昭和五一年年末一時金闘争及び五二年夏期一時金闘争に際して、組合の争議行為によって非組合員が加重な労働を強いられ、部長等から非組合員に対して手当を支給すべき旨の要求があったことなどもあって、加重な労働を強いられた非組合員に対し、その労苦を労う趣旨で、昭和五一年年末と昭和五二年夏期にそれぞれ特別手当を別途支給した。

3  原告会社の組織

(一) 原告会社は、堂島本社と千里事業所に分かれている。

(二) 原告会社の組織は、設立後、企業活動の発展と放送技術の進歩に伴って次第に変更されてきた。原告会社の設立時から昭和五七年四月現在までの組織の変遷の概要は図一のとおりである(<証拠略>。なお、部課の名称にかかわらず部課長が不在の部門のあったことは後記のとおりである)。

(三) 原告会社の業務分担は、以下のとおりである。

(1) 堂島本社(編集部の番組編集課を含む)では、主に毎日放送及びU局関係のテレビ番組、一般企業のPR映画と記録映画、その他広告代理店関係の発注するコマーシャル・フィルムの制作をしており、定時番組の制作が中心となるため、製品納期は確定されている。

なお、堂島本社では、総務機構を通じて、各部長等が行った日常業務のチェック、昇格の推薦、年次有給休暇の付与、勤務割の変更などの整理を行っている。

(2) これに対して千里事業所(撮影部の報道撮影課を含む)では、毎日放送との委託契約による業務に約四〇名余りが従事しており、毎日放送の報道ニュースの取材フィルムの現像・編集・一部録音の作業、コマーシャルフィルム編集作業等を毎日放送の各部署(部室)内で行なっている。

なお、報道関係の編集作業等の場合、特別番組の企画物はもちろん放送日はあらかじめ決定されているが、原告会社の受け持つ毎日放送の定時のニュース番組についても、製品の納入時間が日々定められている。

4  原告会社の職制

(一) 原告会社には、期限を定めない労働契約で雇われる社員と、一年ごとに契約更新という形で契約書を作り直す契約者の二種類の従業員とがいる。

(二) 社員には、一般社員の上に職制機構としてチーフ(事務系は主任)、課長、副部長、部長の四段階があり、原告会社の就業規則上、課長以上を管理職と定められている。なお、組合員は全員社員であって、その中には一七名のチーフが含まれている。

チーフと課長については待遇職が置かれることもあった(<証拠略>)。

(三) 原告会社の人事構成及び規模の年次別推移は別表一(略)の1のとおりであり、また、原告会社の各部課における課長以上職制の配置の年度別推移は別表一の2のとおりである。

別表一の2の示すように、各部には部長、副部長及び課長が必ずしもすべて配されていたわけではなく、部に複数の部長がいたり(昭和四八年以降のテレビ制作部、昭和五二年当時の営業部など)、部長がおらず部の最高の役職者が副部長となっていたり、部の中に課がなかったり、部ないし課に課長が配属されていない場合もある。

また、昭和五七年二月現在の原告会社の人事構成は、図二のとおりである(<証拠略>)。

5  原告会社の賃金体系

(一) 原告会社が設立された昭和四一年当時の賃金体系は、賃金が基準賃金と基準外賃金で構成され、基準賃金は基本給(基準外賃金の算定基礎となる額)と手当(内訳は役職手当、家族手当、通勤手当及び職務手当)を内容とし、また、基準外賃金は時間外勤務手当、休日勤務手当及び深夜勤務手当を内容としていた。

(二) 原告会社は、昭和四三年に職能給を新設し、更に昭和四六年には職務手当によって時間外勤務手当に代えるという従来の方式を是正するために、職務手当を廃した。

(三) 組合結成後の昭和四七年、原告会社は組合との協定によって勤続給と住宅手当を新設し、昭和四八年には加給を新設し、昭和四九年には加給は勤続給に加算してそれ自体は廃止する措置がとられ、昭和五〇年には更に公休出勤手当と宿直手当、支局手当が新設された。

(四) そして、原告会社の賃金体系は、基準内賃金が基準賃金、役職手当及び住宅手当で構成され、うち基準賃金は基本給(年齢給)、勤続給及び職能給から成り、また、基準外賃金は、時間外手当、家族手当、通勤手当、宿直手当及び公休出勤手当で構成されることになり、給与明細書中にもこのように示されていた(<証拠略>)。

役職手当は、チーフ以上の職位のすべてに支給されており、同一職位について、金額にかなりの幅があるが、ある職位の手当の上限が直近上位の職位の手当の下限を超えることはない。

職能給は、昭和五〇年四月一四日の団体交渉の席上、原告会社は二五ランクあることを発表したが、その後変化はない。各人の職能給ランクの決定は勤務の考課査定によるが、原告会社はその査定基準を明確にしておらず、昭和四九年の労使間協定により勤務年数を考慮することが明らかにされたにとどまる。ただし、職能給の二五等級は、職位序列に応じて区分されており、平社員は一等級から五等級、チーフは六等級から一一等級、課長は一二等級から一九等級、副部長及び部長は二〇等級から二五等級とされ、昭和四六年度及び昭和四七年度は一等級が四五〇〇円で、一等級増すごとに一〇〇〇円加算され、昭和四八年度から昭和五三年度は一等級がそれぞれ六〇〇〇円、七五〇〇円、八〇〇〇円、九五〇〇円、一万一〇〇〇円、一万二五〇〇円とされ、一等級増すごとに一〇〇〇円加算され、昭和五四年度は一等級が一万四八七五円とされ、一等級増すごとに一一五〇円加算されていた。

6  本件命令

(一) 参加人らは、昭和五二年一二月九日及び昭和五四年六月九日、原告会社を相手取って、大阪地労委に対し、組合員の役職昇格等を求める救済申立てをした(大阪地労委昭和五二年(不)一〇三号事件、同昭和五四年(不)三一号事件)。

(二) 大阪地労委は、昭和五六年七月二三日付けで、参加人らの右申立ての一部を認容する別紙(一)のとおりの初審命令を発した。

(三) 原告会社と参加人らとは、初審命令のうち、それぞれ主張が認められなかった部分について、被告に対し、再審査申立てをした(原告会社の申立ては中労委昭和五六年(不再)第三七号事件、参加人らの申立ては同第四二号事件)。

(四) 被告は、昭和五九年四月四日付けで、別紙(二)のとおりの主文の命令を発し、同命令書は、同年五月一一日、原告会社に交付された。

三  主たる争点

1  原告会社の職制のうち、副部長及び課長が、労組法二条但書一号所定のいわゆる利益代表者に当たるか。

2  チーフの職位にあった組合員の課長ないし副部長への職位昇格を命じた本件命令の正当性

3  組合員のチーフへの職位昇格を命じた本件命令の正当性

四  当事者の主張の要旨

(原告)

1 課長、副部長の職位と労組法二条但書一号

(一) 原告会社は、役職のうち課長以上を管理職と定めており、原告会社における課長、副部長は、労組法二条但書一号にいう、昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者で、労使関係について機密の事項に接する監督的労働者、その他会社の利益代表者に該当するものであり、そもそも右地位と組合員資格とは相容れず、したがって仮に昇進の資格があるとしても、組合員籍を保持したままの組合員を課長以上の管理職に昇進させないのは当然の措置であって、不当労働行為には当たらない。

(二) 課長、副部長は、原告会社において定める職務分掌、職務権限、労務管理共通職責基準、職位上の共通職責基準に従い、いずれも所属部署特有の職務を担当する他、部下に対する指揮監督権を有し、種々の日常の業務管理・労務管理を行い、また、部下の昇進の推薦を行い、職能給を査定する等人事に参画し、定例・臨時の部課長会議に出席し、会社経営の一翼をになって財政並びに労働関係に対する会社基本方針の協議決定に参画し、その有する権限に軽重はあるが職務の重大性において部長職と変わるところはない。本件命令は、部長については「部の所管事項の総括責任者であって、管理予算の立案執行を行う外、昇格人事を含む人事異動、人事考課、服務規律等について、決定権限を有している」として労組法二条但書一号の「雇入解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者」に該当すると正当に判断しながら、副部長以下についてはこれを否定しているが、失当である。

なお、本件命令は、課長以上の職位について、原告会社には事務分掌規定の存在は認められるが、各部課長の職務権限を定めた規定及び労務管理共通職責基準など管理職にかかる職務権限等について従来から明確な規定又はこれに類するものが存在していたと認めることは困難であるとする。しかし、原告会社における各部課長の職務権限は、会社実体が形作られて次第に発展して行くに従って、各部署の組織が新設あるいは拡大されて行く中で事務分掌が明確に定められ、各部課長の職務権限も整備・拡大されてきたのであり、事務分掌が規定として成文化されていたか否かにかかわらず、明確に定められ適用されてきたのである。原告会社の職務分掌規程、職務権限規程は、社内において次第に積み重ねられ、慣行というより、役員、部課長ら担当者の認知を受けて確定し、実施されていた職務内容ないし職務権限内容を成文化したに過ぎないのであって、これに関する本件命令の判断が誤りであることは明白である。

(三) また、課長以上は、月一回定例的に開かれる部課長会議(通称幹部会)の構成員であって、この会議には毎月の売上状況、収支がすべて報告されるなど経営全般に及び、その中には労働関係の計画と方針に関する機密事項も含まれている。

すなわち、部課長会議においては、原告会社の損益状況、人権費の割合、営業交際費の規模、個人別稼働日数、時間外の支給金額、新規機械の稼働状況、新規番組の企画案、競合入札における原告会社の見積予定額、レギュラー番組に対する競合プロダクションの動向、スポンサーの意向やテレビ局との次の企画に対する検討内容が明らかにされ、また、毎日放送に対する業務委託料金の見積りを検討し、新規設備をする場合の各部の意向を聞いたり、同業他社の既存設備の稼働状況や料金単価の比較などの経営事項及び企業機密に属すべき事項、担当役員から指示された事項に対する答申案が上程されて検討される。

加えて、労務管理及び労務対策上の問題、例えば組合要求に対応した賃金、賞与に関する団体交渉時の会社回答案の検討、組合戦術の分析と情報の交換、抜打スト発生時の各部の対策についての検討が行われているのであって、このような内容が組合に漏れれば、組合の争議戦術に翻弄され、管理職らによる番組制作作業は停止せざるを得ず、予定した以上の妥協を強いられかねないのであって、原告会社にとって重大な不利益を招来することは明らかである。

このように、課長、副部長は、労務管理に関する機密事項に関与するものであって、労組法二条但書一号の「使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とが当該労働組合の組合員としての誠意と責任とに直接に抵触する監督的地位にある労働者」に該当することは明白である。

2 課長、副部長への昇進について

(一) 仮に、原告会社の課長、副部長が労組法二条但書一号の利益代表者に該当しなくとも、組合員をして単に一定の勤務年数の経過で昇進せしめねばならない理由はない。

課長、副部長への昇進は、会社管理職ポスト補充の必要の都度、一定の選考手続きを経た上で行われるものであって、まず充てるべき管理職ポストの存在とその補充の必要性を要件とするのである。一般に企業は、多数の従業員を擁し、これを有機的一体的に管理し統括するために階層的に構成された管理職組織を設けているのであって、経営者が管理職の掌握、統率を十分に行うことができなければ、業務運営は麻痺し企業活動は停滞し会社の安危に重大な影響をもたらす。

課長、副部長は、いわゆる利益代表者に該当しないとしても、利益代表者と極く密接な周辺部分に位置する上級職制であることはいうまでもない。会社は重大な職務と権限を管理職に委ね、他方、管理職は会社の基本的経営方針を体して部下を指揮監督し業務を遂行する責任を負う。会社が誰を管理職の地位に就けるかは会社の将来の安危を左右するものであって、経営者との間に強い信頼関係を必要とするものである。この選任は経営者の専権に属し、むしろ経営者に課せられた義務である。

およそ、原告会社が課長以上の職位へ昇進させることは、原告会社において定められる職務分掌、職務権限、労務管理共通職責基準、職位上の共通職責基準に従い、一般従業員に比較して会社経営ないしは運営に関し重要な職務を担当せしめるという形成的行為であるが、これは将に原告会社の専権事項である人事権の行使そのものであって、木下外二名を昭和五二年三月一日付で課長又は副部長の職位に昇格させること、高橋外二名を同五二年三月一日付で課長職に昇格させることとする本件命令は、不当労働行為救済につき労働委員会の命じ得る原状回復の限界を越えその権限の範囲をはるかに逸脱する違法なものといわなければならない。

(二) 本件命令は「課長、副部長、部長への昇格については、会社はなんら基準を明らかにしていない」とするが、原告会社における管理職昇進は、あくまで該当者の能力と信頼性を前提として原告会社が選考に基づいて行う選抜であって資格制度に基づく資格の付与ではないから、単に勤続年数や年齢等を管理職昇進の基準として示すことができないのはいうまでもないし、労働委員会といえどもこのような基準を勝手に押しつけることは許されるべき筋合いのものではない。

そもそも、管理職は、数少ない管理職ポストにチーフの中で最も有能な人材を抜擢して配置するものであるから、他に比して能力的に優れていなければ昇進させることはできず、単に平均的能力を有するというだけでは昇進は望むべくもないのである。

また、課長、副部長は、ポストが限られ、かつ、チーフや一般従業員を指揮命令する立場に立つのであるから、それに必要な能力を備える者の中から選抜された者に限定されることは勿論であり、一定の年齢・勤続年数に達した者すべてを課長、副部長に登用することなどは許されるべきものではない。

本件命令は、課長、副部長ら管理職の存在理由を無視し単純平等を求めるあまり実質的悪平等を来すものであって、労働委員会の命じ得る現状回復の限界を超え、その権限の範囲を逸脱して原告会社の専権に属する人事権を侵害する違法なものである。

(三) 本件命令は、「チーフ滞留年数六年を経ている組合員には組合員なるが故に課長に昇格していない個人的被害が発生した」というが、昭和五二年六月二四日の団交で会社が主任技師制度を提案した事実は、原告会社に昇格差別など組合員に対する不利益取扱の意図など毛頭なかった事実を裏付けるとともに、組合は自ら管理職昇進以外の処遇の道を拒否したのであって、課長、副部長の職務権限とこれに伴う役職手当の制度を無視した救済を行うべき理由はない。

また、本件命令は、「職制機構が整備され部長、副部長、課長、チーフがそれぞれ職位として確立されているとはみることはできない。」とするが、原告会社は、昭和四一年二月の設立以降次第に組織機構を整備し、管理職として必要とする人材を登用してきた経過がある。放送業界にあっては映像のビデオ化やU局開設等放送メディアの急激な変化が生じつつあり、原告会社は、主要取引先である民間放送会社のニーズに即した態勢を整えるために、組織機構をこれらに対応できるようにしなければならないという状況に置かれている。このような中にあって、原告会社は、小規模の企業であるが故に役職手当の増大による経費増について配慮したり、あるいは部内昇進を計るについても経験が浅く年齢も若く部長としては対外的に問題あるとされる場合は副部長に止めたり、将来に備えた組織を編成しても当面必要としない部署には部長を置かなかったりした場合もあり、また、制作会社としての特殊性から制作部には制作部長のほか専門職としてのプロデューサー部長を置いている場合もあるが、両部長間の職務分掌は明確となっている。

原告会社における部長、副部長及び課長の管理職は、労務指揮という内部的な面においてはもちろんのこと、対外的には放送会社、プロダクションからも権威あるものとして認知されており、職位として確立されているものであって、この点に関する本件命令の判断はこのような理解を欠くものである。

3 チーフへの昇進について

(一) 原告会社のチーフに対する考え方は、一般社員に比し技能的に優れていて、プロダクション業界の中で一人前という評価を受け、仕事を完全に任し得る能力を持つというところにあり、別段専権事項の委任を受けているものではなく、業務遂行上課長を補佐するとともに上司の命じた業務を処理するものであるとされている。したがって、ポストの有無と関係なく発令される。チーフ手当は、役職に対する手当というよりも、技量に対する評価といった要素が強いものである。

(二) チーフについては、昭和五五年頃までは、能力的に優れていて昇格基準に合致すれば一般従業員数との比率を顧慮することなく昇進させてきていた。

しかし、時代の進展とともにスポンサーからの作品の品質に対する要求が高まり、また、高品質の作品を提供することが激しい番組制作会社間の競争に生き残る唯一の道であることから、チーフ昇進についての能力判定はシビアにならざるを得ず、能力基準はもとより社歴、年齢の基準も次第に高まり、本件命令が発せられた昭和五九年当時のチーフの昇格については、能力的基準は別として、年齢三〇歳、勤続年数は一〇年が基準となっていた。

原告会社が昭和四九年六月に組合に示したチーフ昇格基準は、組合からの質問に対し、当時原告会社が考えていた一応の目安に過ぎないものである。当時原告会社は、設立後七、八年を経過した時期であり、当時の一般社員の平均年齢と勤務年数を勘案しチーフ昇格の形式的基準として一応の枠組みを示したものであって、同時に、勤務成績が良好であること、業務についての研究心が旺盛であること、部内での協調性があること、などの基準を示している。単に年齢、勤続年数を満たせばチーフに昇格させることを約束したものではない。

また、右形式的基準そのものも社会的経済的変動により変化するもので、昭和五〇年代の経済低成長の時期においては、企業規模の拡大は困難で人事組織が固定する一方、従業員の定着率が急上昇する中では、役職に就く従業員の年齢、勤続年数は高まらざるを得なかった。一般の会社においても、役職就任の高年齢化傾向は多々みられるところであって、原告会社におけるチーフ昇進の形式的基準も原告会社の実情に添い、変化せざるを得ないことはいうまでもない。

さらに番組、ニュース撮影に関するビデオ技術の進歩に伴い、従業員の技術のレベルアップは顧客からも当然のこととして要求され、好むと好まざるにかかわらず原告会社においてもチーフ昇進の能力基準は年々高まらざるを得なかったのである。

(三) 原告会社は、昭和四九年六月当時において年齢勤続の形式的基準の外、勤続成績が良好であること、業務についての研究心が旺盛であることなど、チーフに足る能力を必要とする基準も同時に示しているのであって、チーフに相応しい能力を満たしたとの判定を得るに至るまでの当該者の年齢、勤続年数が高くなってもやむを得ないところといわねばならない。原告会社は、昇進の是非については能力の有無を重視し、長年にわたり課長の推薦を受けた者の中から昇進者を選抜するという方法を採ってきたものであって、チーフ昇進について、形式的基準、能力基準に達した者につき、組合員、非組合員間で差別的取扱いをしたことはない。

また、右の形式的基準に該当するようになった場合には、該当者はチーフ昇進もあり得るという期待は生ずるが、これとても期待的利益ないしは期待権として構成されるに過ぎず、法律上の保護が与えられるには程遠いものである。顧客のニーズ、業界の状況及びこれに伴う会社の状況、従業員に要求される技術水準を無視して、組合員をチーフ職に昇格させかつ昇格の日時からの役職手当及び職能級との差額を利息を付して支払えとする本件命令は、法的根拠もなく違法なものであるといわなければならない。

(四) 本件命令は、いわゆる大量観察の手法を採用し、組合員と非組合員との間にチーフ昇格について格差があると認定するのであるが、そもそも大量観察の方法によるべきときは、対比されるべき両集団の成員数による統計上の誤差を検定するとともにその等質性を検証しなければならないとされている。その意味では、この手法は、本来両集団の成員数特に組合員の数が十分大きいときにしか適合しないし、また、両集団に単に学歴、職歴、年功、職種等のみならず業績、能力、勤務態度その他の事項についても定まった偏向の存しないことが明らかでなければ適用し得ないものである。

本件命令の場合は、単にチーフ昇格時の年齢、勤続を組合員、非組合員に分けてそれぞれの平均値を出し、その単純比較により組合員と非組合員との間に格差があると結論するものであるが、大量観察方法の適用自体誤りである。しかも、比較対象となった人員は組合員一一名、非組合員一七名の少人数であるうえ、入社時期については、組合員のグループは、昭和四四年八名と偏り、四五年二名、四八年が一名であるのに対し、非組合員グループは四一年一名、四二年四名、四三年五名、四四年四名、四五年二名、四六年一名とばらつきが甚だしい。しかも原告会社は、必ずしも学卒者、高卒者を卒業年度に採用しているわけではなく、中途採用者が多く入社前歴も区々で均質でないから、年齢、勤続年数の平均値をもって単純に両者を比較することは無意味である。本件命令は、組合員については昇格年齢平均二八・四歳、平均勤続年数七・四年であり、非組合員の場合は前者は二七・二歳、後者は五・四年であると認定しているが、入社前の職歴、学歴、職種、業績等の諸事情を勘案するならば、両者間にさしたる差はみられない。しかも原告会社は、昭和四一年二月に発足してから次第に組織を拡充するとともに部課長やチーフを登用してきたものであって、原告会社形成期にあった昭和四一年から同四六年頃までの設立初期にあってはチーフ昇格が早かったことはいうまでもない。したがって、右比較を行うに当たってはこの事情をも当然考慮に入れなければならないにもかかわらず、これをまったく無視している。

(五) 本件命令は、チーフ在職年数・チーフ未昇格者勤続年数の認定について誤りがあり、本件命令自身が用いる救済基準に該当しない者まで救済の対象としている。救済を命ずる者のうち、清水、新家、井上、柏原及び山口はいずれも昭和四九年四月一日に入社しており、賀川は同年一〇月一日に入社したにもかかわらず、本件命令は、清水、新家は昭和四六年度、井上は昭和四七年度、賀川、山口、柏原は昭和四八年度の入社と認定しているが、右の者らが当初フリーの契約者として一年の契約を結び、契約を更新してきたという事実を無視し、当初の契約日を入社日時としている。原告会社は、右契約者らについて昭和四八年度に社員登用試験を実施し合格した者につき、昭和四九年四月一日あるいは同年一〇月一日をもって社員として正式に採用したのであり、本件命令は事実を誤認するものである。

4 木下ら一九名の組合員の業務遂行能力について

取消訴訟における裁判所の審査は、法令の解釈だけでなく事実認定にも及ぶのであり、新たな主張立証につき制限はないところ、木下ら組合員一九名の業務遂行能力は、以下のとおりであり、右能力に照らしても、本件命令の主文に掲げられた時点でのチーフないし課長への昇格は望むべくもなかったものである。

<1> 木下について

木下は、入社後CM制作部に所属し昭和五四年三月まで七年間コマーシャルの企画演出を担当したが、カメラマンに指示もできずポケットに手を突っ込んで立っているだけという行動状態があったり、CMの演技をタレントに指示することも満足にできないなど、自主性・積極性や企画構成力が乏しくCM制作能力が著しく劣悪であったため、スポンサーや広告代理店からの苦情や担当替えの要請がしばしば原告会社になされた。木下は、昭和五四年四月よりテレビ制作部に所属が変更になり、テレビ番組の制作業務に携わり構成・演出を担当しているが、原告会社では最も初歩的な業務である大阪府広報部提供「大阪メモ」(五分番組、年間一二本)についても、スポンサーである大阪府の広報担当者より内容の苦情があった。このような状況のため、原告会社は短期間で担当をはずさざるを得なかった。

少なくとも昭和五二、三年当時、木下は、覇気に乏しく日常勤務の上でも職場の無断離席が頻繁なこともあり、部下の指導や部内管理という管理職業務など到底不可能であると評価されていた。木下は、当時チーフ職であるが、他のチーフ職と比較し、その評価は劣悪であり、これ以上の仕事を担当させることもできない状況であった。

<2> 山添について

山添は、撮影カメラマンとして入社したが、あるゆる種類の撮影に取り組むという積極性や意欲がなかった。また、新しい機材などの研究や知識の習得をしようとする積極性もなく、自分の使用する機材でさえも、当然必要とされる事前の点検整備すら行わないのが実情であって、与えられた撮影業務をとりあえずやりさえすればよいという勤務態度であった。カメラワークが悪く、カメラの基本的操作を忘れ、レンズのシャッターを閉めたまま撮影するという重大な過失も犯していた。制作部からは、他の若いチーフ、カメラマンと比べて撮影技術の劣る点が指摘され、苦情も多くあり、撮影デスクとしては、無難な仕事を割り振り指示するのに苦慮しているのが現状であった。

山添は、日常の勤務状態においても遅刻と無断外出が多く、注意を与えても一向に改善されず、実稼働日は、昭和五二年で僅か八六日、翌五三年で僅か八七日であり、他のチーフが約一七〇日程度であることと比べると著しく少なかった。

<3> 寺本について

原告会社における編集作業はVTR編集とフイルム編集があり、VTR編集が八〇ないし九〇パーセント、フイルム編集が一〇ないし二〇パーセントとなっているが、寺本の日常業務はVTR編集機(簡易コンピューター)の取扱い(オペレーター作業)が主であった。

寺本は、「現代を生きる」という番組のネガ切りの編集作業において、ポジと違うカットをするという通常では絶対考えられないようなミスを犯したことがある。その原因は、就業時間中にも組合のことばかり考えていて、業務については集中できない状況を自分で作り出していたからに外ならない。寺本は、基本オペレーター作業はできるものの、自分から積極的にオペレーター作業を向上させる積極性がみられなかった。

また、VTRの取扱い、編集機操作方法の研究にも、やはり消極的であった。同一の編集機でも操作方法は多岐にわたっており、編集員としては迅速なオペレーター作業が要求されるのは当然であった。もし、昭和五二年当時に寺本が管理職になったとすれば、VTR編集方法の知識不足から、作業管理の上で大きな弊害が出ることは明らかであった。

<4> 高橋について

高橋には積極的に業務を遂行しようとする意欲や責任感がなかった。例えば、毎日放送の報道番組「MBSナウ」のバックミュージックの選曲作業を担当していた当時、この業務がなくなったとき、仕事がなくなったといって手をたたいて喜んでいるといった勤務態度であり、企業意識は極めて希薄としかいいようがなかった。三〇分番組のテレビ・ドキュメンタリーの作業に関しては、「こんな作業の中では仕事ができない」といって上司に怒鳴り込み、挙句の果てには休むという無責任な態度に終始した。

高橋の出勤状態も、定時の午前一〇時に遅刻することがしばしばであり、しかも長期にわたり出勤時刻の虚偽申告をし、上司が注意しても全く反省しなかったのである。

日常業務においては、自己中心的な行動が目立ち、気分で動いているとしかいえず、また仕事の作業時間にもムラがあった。業務の待ち時間は通常次の業務の準備をすることになっているが、同人は仕事にかこつけて職場を離れ、他の職場での雑談等無為な時間を過ごすことが多かった。

さらに、作業場の整理であるが、日頃から整理整頓を指導されているにもかかわらず、自室の音源ライブラリーテープなどの整理整頓も全く不十分であった。同人の日常行動は、自己の利害、好悪によって左右されることもしばしばであり、録音部会の開催途中で、自分の意見が通らないときなど感情の昂ぶりが激しく、組合の話を始め、さらに興奮して管理職に罵声を浴びせ、録音部会の席を立って出てしまうという状況であった。

<5> 河合について

河合は、テレビ制作部に所属し、テレビ番組の制作進行業務を経て構成・演出の担当となり、昭和五五年より、テレビ番組「真珠の小箱」(一五分番組)の構成・演出をしていた。

河合の勤務状況について一貫していえることは、不当な無届けストライキを頻繁に行ってきたことである。例えば、昭和五三年六月、広島RCCのゴルフ番組の担当者としてロケハンなど事前作業(調査打合など)済ませておきながら、放置すれば取材に大混乱を起こし、スポンサーにも多大の迷惑をかかることを十分承知のうえで敢えて無届けストライキを行った。原告会社は代替のディレクターを立てたが、事前調査が不十分で完成度の低い作品になってしまった。

また、テレビ番組「真珠の小箱」の制作に関しては、「昭和五七年五月九日のOA薪能」を担当したが、その録音作業完成後に毎日放送のプロデューサーよりクレームがつき、再構成・再録音を行わざるをえなかったという問題もあった。

次に河合は、業務の遂行にあたり、他の部員の仕事の段取りを無視するので、部員間では「河合独立プロダクション」だとまでいわれていた。本人はマイペースで仕事をしているのであって、丁寧な仕事ぶりだと自負しているが、従業員である以上、受注量に見合った作品作りに努力するのが当然である。

要するに、河合は、自分の担当作品意外は関知しないという基本姿勢であり、管理職としての部内管理、部内利益調整、という業務の遂行能力は全く欠如していた。

<6> 西木について

西木は、定時に出社することが少なく改善の指導にもかかわらず、聞く耳をもたないという勤務態度であった。出勤時間の不正申告についても前述の高橋と同じであった。

また、部長不在時に、「管理職でないから」といって本社からの業務連絡電話をも取り次がないといった無責任な面もあった。

西木の性格は無愛想であり、例えば、毎日放送とかゲストなどから挨拶があった場合でも返事をしないことが多く、相手に不快な感じを与えることもしばしばで、社内外を問わず協調性の欠如も著しいものであった。

西木はミキシング作業に従事していたが、組合員であるため、事前通告のない抜き打ちストライキを突然敢行し、原告会社が予定していたロケの予定が狂うことがあった。

西木の原告会社への阻害度については、例えば、昭和五七年青年文化祭ロケ及び昭和五八年「ひと・もの・くらし」という番組の「大型タンカーの水先案内人」というタイトルでのロケの際、西木はロケ打ち合わせをしておきながら当日になって突如、不当にも業務拒否を行ない、悪意に満ちた業務阻害を発生させ、代行人員の手配に原告会社として非常に苦慮した事実がある。

<7> 清水について

清水は、入社以来業務仮払金の未精算が甚だしく、昭和五九年度末(昭和六〇年一月三一日まで)現在で三六一万八四八〇円にも達し、未だに未精算である。この一事をもってしても、チーフとしての能力が全くないといわざるを得ない。

そのうえ、清水は、注意力が散漫で物忘れがあり、責任感に欠如していた。自主的な業務遂行能力にも欠け、仕事の成果も少なく、責任感も希薄であり、チーフとしての能力に欠ける。

<8> 林について

林は、昭和五二年当時未だ撮影助手であり、カメラマンとして一人前ではなかった。昭和五六年頃より、ようやく簡単で、短いものができる状態であった。撮影プランの勉強なども遅れていたと評価されていた。換言すれば、仕事に対する熱意に欠け、カメラマンとしての視点が定まっていないのが実情であった。

林は、自らの不注意による撮影事故に際しても反省の度合いが極めて希薄であり、そのうえ自己中心的でスタッフの指導性にも欠如しており、時間にもルーズで、遅刻が多く、また作業にも支障を来すこともあった。

<9> 西村について

西村は、積極性に欠けるうえ、技術が拙劣であり、逆に事故失敗例については枚挙にいとまがない。

例えば、現像部におけるミスは、撮影済のニュースフィルム缶をあけた、現像中のマガジンの蓋をとった、暗室にて赤ランプをつけ焼付を実施した等である。また、「エヤ切り」という現像機付属品を液中に落としたとの理由で発色液約三五〇リットルをすべて流失させ、現像部員全員に大混乱を与えたこともある。これらの事故は常識では考えられないことばかりである。

原告会社は、その都度注意していたがその効果はなく、やむを得ず編集部へ配転させた。編集部員としての最も簡単な仕事は一分前後仕上げのニュースの編集であるが、西村は、練習指示を出されても、「私は頭が悪くてそんな高度な仕事はできない」の一点張りであった。また、西村は、注意力が散漫でVTR機材点検業務にミスが多く、部員間では「西村が触った機材は使用前に必ず点検を」というのが報道カメラマンの常識語となっていた。

<10> 井上について

井上は、積極性に欠けるうえ出勤時間がルーズで、たび重なる注意にもかかわらず遅刻の常習者であって、全く改めようとしなかった。性格的にも横着な点があり、ロケの出発直前に現れ、機材の点検もできず、忘れものがあったりで苦情が出たこともあり、そのうえ仕事の速度が非常に遅く、一つの画面を極めるのにあれこれ迷い大変時間がかかり、気迫や研究心がなかった。

また、もともと井上は、写真学校出身でないためか、昭和五七年には、カメラマンとしての向上の兆しがみえてきたものの、まだ技術面でも精神面でも力量はB級であり、カメラワークの基本的な技術が未熟なため画面に安定性がなく、やむなく助手をやらさなければならないことが多く、対外的接触の絡みのあるカメラマンとして、今一つ信頼感がなかった。昭和五四年三月には井上は未だ助手でカメラマンではなかったのであるから、昭和五四年にチーフにするのは論外であった。

<11> 賀川について

賀川は昭和五八年までカメラマン助手であった。助手当時、計測などの基礎技術力はあったが、本人の不注意による事故が多かった。このことも昇格が遅れた理由である。例えば、撮影中アリフレックス用マガジンを破損したり(修理代三八万円は原告会社が払った)、充電バッテリーのスイッチを切り忘れ、過充電になってそのバッテリーを壊したり(大事故につながる可能性がある)などである。

賀川は、おっとりしたところもあるが、右のような不注意による失敗を除けば、入社後研究熱心で真面目に仕事に取り組んで助手としては有能であった。技術の基礎のほか、自己確立や作品の「一時の素材を作る」ことにも徐々に成長が見られた。しかし、残念ながら、昭和五四年三月には賀川は未だ助手でカメラマンではないし技量も前述のとおりであるから、同年にチーフにするのは到底無理であった。

<12> 柏原について

柏原は、自己本位な行動が目立ち、感情の起伏が激しく激昂しやすいため、他の部員との協調性に欠け、仕事にムラがあった。また、カメラマンとしての最も基本的な撮影開始時刻に関する責任感を欠き、再三再四にわたり開始時刻に遅延する等、職場規律を乱すことが多かった。時間外勤務が多く、非能率的作業をしていた。非協調性、責任感の欠如は必然的に、ソウルオリンピック取材で機材を二台分とも落として壊した等の事故に結びつく結果となっていた。

<13> 田中について

田中は、昭和五一年七月から報道撮影課のニュースカメラマンとなり、それまで助手をやっていた。助手としての能力は十分あったが、助手というのはファインダーを覗かない業務であって、荷物運び等の手伝いに過ぎず、昭和五二年当時、田中は、カメラマンになったばかりで、繊細な注意力が要求されるカメラマンとしては、やや注意力散漫なところがあり今一歩であった。

昭和五一、二年頃は上がつかえていたため、田中がカメラマンと兼助手をやっていた事情もある。当時は助手八年から一〇年でカメラマンになるのが通例であった。加えて昭和五二、三年当時は越年闘争のあおりで経営がどん底の状態であり、新規採用も昭和五二年より同五五年までゼロであり、昭和五三年度はチーフ昇進もできる状態ではなく、その影響もなくはない。

田中は、カメラマンになって三年目の昭和五四年六月一日にチーフに昇進しているが、これは決して遅いものではない。

<14> 間宮について

間宮は、昭和五二年当時カメラマン兼助手をしており、当時助手経験八年から一〇年でカメラマンになるのが通例であって、チーフになれない状況にあった。しかも、助手時代にもカメラ操作で基本的な失敗も目についた。

間宮は、入社当時から性格的に激昂しやすく、礼儀に欠け、挨拶もできない状態であり、内外を問わず人間が変わったように、見境いなく人を誹謗することがしばしばであった。性格的に相手の意見を聞こうとせず、業務面で自分自身の主張のみが正しいと信じており、そのためカメラ表現の内容が視聴者に向かっての訴えが全くないことが多かった。

業務の面では協調性に欠け、例えば、番組「結婚裁判」撮影のとき、同僚は一生懸命やっているのに知らない顔をして本を読んでいて、外部の関係者に不快感を与えた。間宮は、昭和五二年当時助手としての能力が前年よりは備わっていたが、上にカメラマンが多くいて、人材的につかえていた。昭和五三年に一本立ちのカメラマン、チーフになったのは、むしろ他のカメラマンに比較して早かった。

<15> 田沢について

田沢は、昭和五二年当時は、技術的にニュースは取れるが、構成力のいる番組的なものを任せられる状態ではなかった。表現力に問題があり、番組的なものでは創意工夫にやや難があり、当時まだ一人前のカメラマンとして認められなかった。

田沢は、人間的には常識的であり、人あたりは良く特に問題点はなかったが、やや線が細いきらいはあった。優秀なカメラマンには強い忍耐力と対人交渉能力が要求されるが、田沢にはこれが欠けていた。

昭和五二年当時、田沢は、今一歩自ら進んで仕事を行う積極性と率先力が不足しており、個性がないということであった。

<16> 柏渕について

柏渕は、CM制作部に所属しながら演出家としての創造性に乏しく、他社作品を一部手直しして使うというやり方が多く、独自性がなかった。稼働日数が他の部員と比較して著しく少なく、会社業務に関する命令について、上司に反抗的であった。

昭和五五年頃までの柏渕は、毎回のようにストライキ(事後通告)終了後職場へ帰ってきてから、必ず同僚と喫茶店に行き、長い時間を費やして帰ってきて、しかも上司に何の連絡もしないので、上司が「どこへ行っていた」と聞くと、「勤務時間中に打合せをして何が悪い」と食ってかかる始末であった。

柏渕は、上司にとって、仕事をしているのかいないのか、全く分からない状態であった。上司が「前の仕事は一時間位で終わるはずではないか」ととがめると、「私のスケジュールやから、とやかく言われる必要も説明する必要もない」と全く反抗的な態度であった。

柏渕は、CMフィルム編集(オプチャル素材)完成までは優れているが(柏渕の唯一の長所である)、一からの作品に携わるということに無理があった。本来の仕事への関わり方が希薄で、積極性がなく、いわれたことだけをやればよいという態度であった。社外活動に時間を費やし、作品の完成は二の次で、そのため、管理職が信頼して仕事をさせにくい状態であり、また自らこれを拒んでいた。

柏渕は、社員でありながら、原告会社の利益に関するようなことには全く無関心であった。部外者からの電話が多く、無断職場離脱(事後通告のストライキ、行き先の明示なし)が多く、注意しても改善されなかった。

柏渕の実行予算書は、正確ではあるが全部ロケが終わった後での提出であり、常に遅れてくる筆頭であって、そのために作業内容の把握ができにくい状態が多かった。

<17> 新家について

新家は、撮影業務現業者としての専門的な教育を受けていなかった。撮影の技術基礎は、短期間のアシスタントの中で取得されたもので、ニュースカメラの仕事が大半であって、番組的要素の映像表現技術が未熟であった。新家は、九年間京都駐在で、ニュースの取材を主に行っていた。しかし、当地でも番組ものは任せて貰えなかった。

報道のドキュメンタリー番組など表現力と構成能力にやや欠けていた。また、勝手な判断をして写真記者協会の取材協定破りをして除名処分となるトラブルを起こした事件があった。

撮影チーフという技量は、一応撮影全般が処理できる能力を基本条件としているが、新家にはそのような技量は認められなかった。新家は、技術革新に対し、技能の対応努力に欠けていた。当時、フィルムカメラからエレクトロニックス、ENGの取材システムに変更の時代に入ってきたが、自ら新しい機材の応用技術を学ぶ積極的態度が欠けていた。

取材に際し、熱心であるが不注意なところもあり、昭和五八年二月二六日京都において取材中ルールを無視し、写真記者クラブの取材協定に違反し、始末書をとられたことがあった。

<18> 矢部について

矢部は、手が非常に遅く、録音機器操作にもたもたしたところがあった。スタジオでの完パケ作業(放送できる状態に完成させること)においても、真面目に作業しているが、作業手順が悪く、例えば、カット変わりで前のカットの効果音が次のカットまでずれこんだりして不自然なミキシングになり再度ダビングをやり直すなど、とっさの判断に欠け、制作担当者が後ろで見ていてもはらはらする場合もあった。

矢部は、失敗が多かった。その例を挙げれば、昭和五七年二月二五日、広島月華殿の「OH結婚」番組で、音声バランス不良なのに適正な判断もなくそのまま録音したため、周りのノイズが高くて主音声のレベルが低く、何を言っているのか聞き取りにくく、放送素材として耐え難い内容で放送せざるを得なかった。これは、本人が収録内容状況を良く判断して真剣に仕事に取り組んでいれば、色々工夫することができ防げたはずであった。

このように、昭和五四年当時、矢部には到底チーフになる能力はなかった。

<19> 山口について

報道編集マンの第一歩はニュース編集であり、特番の編集ができるようになって初めて一人前の編集マンといえるのであって、山口の場合は、当時まだそこまでの技量に達しておらず、加えて他の部員に対する協調性が著しく欠如しており、自分の意見が通らなければ、すぐ態度に出て、機械の操作が荒くなり、他の者に不快感を与えていた。

そのうえ山口は、無口で表現力に乏しく、暗い感じを与え、人との関わりかたに乏しく、特に報道職場はスポンサーとの共同職場であり、特に協調性が必要であるため、都合の悪いことが多かった。同じ時期の入社である北原重幸は、昭和五四年四月一日にチーフに昇進しているが、同人は、入社前に二年間各務プロダクションでフィルム編集の経験があり、昭和五二、三年当時では山口とは技術の点でかなりの相違があったものである。

(被告)

本件命令は、労組法二五条、二七条及び労働委員会規則五五条の規定に基づき発せられた適法な行政処分であり、処分理由は本件命令書記載のとおりであって、認定した事実及び判断に誤りはない。

(参加人ら)

1 原告会社における労使関係について

本件命令中の原告会社と組合との関係に関する認定に事実誤認はなく、原告会社は毎放映画の不当労働行為の一環として設立されたものであり、昭和五二年年末一時金闘争以降の労使の対立の激化をみても、原告会社の組合嫌悪の意思の存在は明白である。

2 課長、副部長の職位と労組法二条但書一号

(一) 原告会社における職位及び各職務権限の実態

(1) 原告会社には、取締役(役員)を筆頭に、部長、副部長、課長、チーフ、平社員という肩書、職位がある。しかるところ、原告会社は、以前から、社長である茨木一族の同族会社たる実態を色濃く残すものであり、管理職機能の重要な大部分、特に雇入れ、解雇、昇進、異動等の人事に関する最終的決定権限が役員会もしくは役員そのものに独占されており、わずかにその補完機能を部長が担っているか、代行していると評価でき、副部長、課長は、組合員資格と抵触するような管理職機能を有するものではない。

(2) 副部長、課長は、せいぜい日常の業務遂行上の、決定権の伴わない雑務等を処理し、起案したり、上申したりする権限を与えられているに過ぎず、中間管理職的要素さえ極めて希薄であって、労組法二条但書一号にいう「監督的地位にある労働者」「使用者の利益を代表する者」にいずれも該当するとは到底評価できず、したがって、組合員であるからといって、これらの職位への昇格を拒否、排斥する正当な理由はない。

(3) 付言するに、原告会社の機構、組織として業務内容別に「部」があるが、各部における部長ですら、部によっては複数の部長が存在し、課長も同様である。そして、複数の部長、課長が存在する場合、明確なライン、スタッフの区別はなく(ライン部長、スタッフ部長の任命はなく、せいぜい慣習的に任務分担しているだけである)、結局、会社の主張する「管理職」が実態を離れたものであることが裏付けられる。

(二) 職務分掌規程、職務権限規程について

(1) 原告は書証として『職務分掌規程、職務権限規程』を提出し、あたかも会社における職務分掌、職務権限が、整備され、明文化されて、かつ右規程どおりに実施、実行されているかの如く主張するが、ごまかしの主張であり、まったく実態とかけ離れた、ためにする議論である。

すなわち、まず、右『職務分掌規程、職務権限規程』は、地労委の本件審問過程では提出されておらず、被告の審問のなかで初めて提出されたものであり、また、原告会社自身も、右書面が、地労委への申立て以降さらに被告への再審査申立て以後(昭和五六年頃)に検討のうえ、作成されたこと自体を認めている。

(2) また、右書面で規定する各職務分掌、職務権限に関しても、「起案」「検討(審査)」「決定」「承認」「報告受付」というように、職務遂行上の各権限の内容が段階的に細分化して規定されているが、「起案」は、あくまで「案を作り、具申する」だけであり、なんらの決定権限を有せず、「検討」も、「起案」を検討し「決定または決済の前提行為として上申する」だけであって、やはり決定権限はない。問題は「決定」であるが、これもその上のレベルの「承認」や「報告」を要するものが大部分であって、用語どおりの決定(最終決定)はほとんど見受けられず、「承認」されて初めて実施されるものは「起案」「検討」と同じであるし、「報告」を要する「決定」も、場合によっては、決定に対して報告受理者が問題を指摘したり、再検討を命ずることはあり得るのであり、結局、「承認」や「報告」を要する「決定」は用語どおりの決定ではなく、実態的内容から考察すれば、「起案」「検討」や「上申」と変わらない。付言するに、職場の実際の業務遂行上では、このような複雑な職務権限の詳細が、そのまま規定どおりに運用、実施されているはずもない。あくまで原告会社が理屈で作成した机上の職務権限の規程である。

(3) 次に、右『職務分掌規程、職務権限規程』の内容であるが、まず「労務管理共通職責基準」の表をみると、勤務時間、休日、休暇、欠勤、勤務変更、出張等日常の業務遂行上発生する問題に関する決定は、課長が「決定」したうえで部長に「報告」することとなっている(「宿泊」は、例外的に、部長が「決定」する)。しかし、これらは、雇入や解雇、昇進異動等「人事」に関する事項ではないから、これらの「決定」権限が付与されていたとしても、組合員資格と抵触するものとはいえないし、また、使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項でもないから、その点でも組合員資格と抵触するものとはいえない。

問題となりうるのは「人事考課」、「服務規律」、「賞罰」であるが、人事考課は部長もしくは担当役員が決定し、昇進の具申は、チーフ昇進については課長が「決定」したうえで部長が「承認」する、課長昇進については部長が「決定」したうえで担当役員が「承認」する、と規定されている。右のいずれに関しても総務部が関係先として関与し、昇進については、チーフは「部課長会」、課長は「取締役会」がそれぞれ「決定」するものとされており、チーフは単なる職位であって管理職ではないことを会社が認めている点からみても、右規定どおりに実施されていたとしても、職務権限の付与と組合員資格との抵触の問題は発生しない。

「服務規律」は、日常業務上の職場離脱や業務命令違反等に対する監督権限をいうのであろうが、「賞罰」に関する決定権限が伴わなければ組合員資格との抵触を云々すべきものではなく、「賞罰」については担当役員もしくは取締役会が決定することとなっているので、問題はない。

(4) 最後に、各部の職務分掌と職務権限規定のうち問題となりうるものを検討すると、まず「部運営方針」は、企画管理室を除いて、部長が「決定」し担当役員に「承認」を受けるものとされており、前記「承認」の性格からみても、別段問題にならない。

また、総務部と企画管理室という特殊な二つの部署に関しては、組合員資格と抵触する可能性のある人事や会社の機密事項についての決定権限の検討が特に必要であるが、そのような事項に関する「決定」権限が課長に付与されていると解されるものはなく、部長に「決定」権限があるものについても担当役員の承認を要するものが大部分であり、その余も担当役員が「決定」するか、担当役員への「報告」が必要とされている。営業部に関しても、一部組合員資格と抵触する可能性のある管理、監督権限の有無について検討を要するといえるが、問題となりうる事項に関しては、部長が「決定」したうえで担当役員の「承認」や担当役員への「報告」を要することとされ、あるいは取締役会での決定を受けることとされており、なんら問題はない。

その余の部署(部)については、制作に直接関与する部であって、本来組合員資格と抵触するような職務権限が問題となる余地が極めて少ない。わずかに外注制作スタッフ雇入やその料金交渉等が広い意味での人事に関する職務権限と解し得るだけであるが、部によって、部長が「決定」し担当役員が「承認」する形式か、又は、課長が「決定」し部長が「承認」する形式をとっていた。しかし、外注制作スタッフの雇用は、あくまで正社員の雇入れではなく、仕事に応じた臨時の雇入れであり、また、そのスタッフは単発で雇用される者より常時会社とつながりのある者であることも多く、採用するか否かで重要な選択が迫られるケースはほとんど予想されないし、スタッフの料金も、その者の経験や技術でおのずとランク付けされているケースが多いので、相場に応じた料金で問題なく決定されるはずである。したがって、右外注スタッフの導入に関する職務権限は、組合員資格と抵触しない。

(三) 部課長会議について

原告は、部課長会議でストライキ対策を検討しているかの如く主張するが、このような話がなされているとしたら、これは原告会社側が課長以上の者をストライキ対策要員として確保、利用している現実を如実に証明することにはなっても、課長以上の本来の職務権限が組合員資格と抵触するか否かの判断材料とはなし得ない。

部課会では営業収支等の報告等がなされるにすぎず、また、部課長会には決定権限はなく、議事録も作成されず、定足数もなく、出席も義務化されていないのであり、この会議の性格からみて、課長、副部長が労務管理に関する機密事項に関与するものとはいえないのであるから、労組法二条但書一号に該当するとみることはできない。

3 課長、副部長への昇格について

原告会社は、チーフ昇格基準については公表しているが、課長、副部長への昇格については、もともとこれらの職位が組合員資格に抵触するものであり、組合員の昇格を認めないという態度で終始してきたためか、その昇格基準を公表したことはなく、課長、副部長基準そのものが存在するか否かについても明確にしていない。

したがって、組合員に対して組合員であることを理由とした差別、不利益取扱いがあったことを認定し、その救済を図るためには、現に過去に昇格した人(必然的に非組合員である)の実例を参考にするしかない。具体的には、非組合員の過去の昇格実例をすべて検討し、特に客観的要素たる昇格時点での「年齢」、「勤続年数」、「前職滞留年数」(課長への昇格の場合は、チーフ滞留年数)の三つの要素に着目し、その数値と比較して、差別、不利益取扱いを認定するのが正当である。

そして、右各要素の数値に、当然格差、ばらつきがあるため(昇格した各人で差がある)、それぞれの要素の平均値、中間値を基準として検討する以外にない。そのような認定作業を経て救済がなされるならば、その救済は合理的、客観的な正当なものと解すべきであって、その意味において、本件命令は正当である。

4 チーフへの昇格について

(一) 原告会社におけるチーフの職位は管理職ではない。このことは原告も認めて争わない。問題は、チーフ昇格に関し、組合員と非組合員との間で合理的な理由のない格差が存在するか否かである。

(二) チーフ昇格に関しては、組合の昇格差別についての追及の結果、原告会社が昭和四九年六月二九日に公表したチーフ昇格基準が現に存在し、その基準がその後本件不当労働行為救済申立時までに変更された事実はなく、基本的には右公表にかかるチーフ昇格基準を修正する旨の原告会社の発表があったわけではない。

しかも、右公表にかかるチーフ昇格基準においては、年齢(二七歳)、勤続年数(六年)という客観的要素が設定されているから、それを基準にするのは当然であるが、そのほかの主観的要素は、原告会社の恣意的運用を認める原因になるので無視すべきであり、少なくとも、それを重視すべきではない。かような要素は、極めて主観的であり恣意的な昇格を正当化する理屈に利用されるおそれが大きい。また、かような諸要素について地労委、中労委段階で具体的詳細に検討するだけの資料は原告会社側から提出されていない。したがって、本件において、改めて右諸要素を検討すべき筋合ではなく、右各諸要素はせいぜい一つの参考資料となり得ても、チーフ昇格基準自体に盛り込むべき要素とは評価できない。

右公表されたチーフ昇格基準の年齢及び勤続年数の数値は、非組合員のチーフへの昇格事例に比して年齢でほぼ一致し、勤続年数では若干実態より高く、その意味で、この昇格基準は最低基準である。すなわち、この基準を満たす者は無条件でチーフに昇格させるべきであり、基準に到達していない者についても、勤続年数か年齢かどちらかの数値が他方の数値の不足を補って余りある例については、やはりチーフに昇格させるべきであり、現実の非組合員の昇格実態を考慮に入れて、救済の基準を修正することになる。

結局、前記公表されたチーフ昇格基準を主として考察し、その上で非組合員の昇格実例との比較を考慮に入れて、適切、妥当な救済をなすべきことになり、本件命令は、基本的に、前記公表されたチーフ昇格基準に基づいて判断しているものであるから、正当であり誤りはない。

(三) なお、原告会社は、西村、清水、新家、井上、賀川、山口、柏原の各人につき、本件命令の認定した入社時期を争うが、契約者として入社した時期は、あくまで本件命令の認定にかかる時期であって、原告の主張は、右契約者としての稼働期間を無視するものであって、失当である。

5 本件各組合員の業務遂行能力について

原告は、地労委、中労委の審問を通じ一貫して、組合員資格と管理職とは相容れないとのみ主張し、組合員らの個別の業務遂行能力は明らかに争わなかったのである。原告が本訴において「個別能力論」を持ち出したのは、単に解決引き延ばしのため行なっている主張であるといわざるを得ない。したがって、本訴においては、第一に、地労委、中労委を通して、個別組合員については、他の従業員と比較して劣った点はなく、組合主張の優秀な従業員として評価されるべきであるとした点について、原告が自白したものとすべきであり(民訴法一四〇条)、第二に、原告が地労委、中労委で一切右の主張を行なわず、本訴において主張することは、訴訟遅延を狙うものといわざるを得ず、かかる故意による訴訟遅延に対する制裁、すなわち「時機に遅れた攻撃防御方法」として採用されるべきではなく(民訴法一三九条)、第三に、原告会社がこのような「個別能力論」を主張することは、現行法制度を悪用するものであり、信義則に反するものであって、権利の濫用として許されないといわなければならない。

なお、本件各組合員は、以下に述べるとおり、いずれも業務遂行能力において、なんら欠けることはなく、原告の主張は認められるべきでない。

<1> 木下について

木下は、毎日放送映画入社以後CMディレクターとして稼働し、昭和四〇年にチーフになった。職場復帰後も、CM部に所属し、同五四年にテレビ制作部に配置転換されたが、一貫してディレクターとして、CMもしくはテレビ番組の企画、演出の仕事を担当してきた。依頼主(スポンサー)や広告代理店等からCM制作に関する苦情や担当換えの要請を聞いたことはない。

次に、原告は、同人の稼働量、稼働日数が少ないというが、年度によっては組合の闘争が盛んな時期があり、ストライキ対策として原告会社が意図的に仕事の割り振りで組合員には仕事をつけないことも多かったこと等に鑑みれば、同人が業務に不熱心であるとか、貢献度が低いとか短絡的に評価することは誤りである。

原告は、「大阪メモ」の演出に関し、ナレーションが大阪府の広報パンフレットとまったく同じで工夫が足りないというが、この番組自体が大阪府の催物等の告示、広報番組であるため、しかも三分間番組という時間的制約もあるため、工夫の余地はなく、むしろ正確を期すならば、広報パンフレットの文言を下手に変えることの方が危険であるともいえるのであって、原告の右非難は的を得ていない。

同人は過去カンヌ映画祭の出品、日本コマーシャル制作者連盟のコンクールへの出品等もしており、作品に自信を持ち、それなりの評価も得ている。

<2> 山添について

山添は、新しく開発されたフィルムについて論文を提出して入賞したり、同人誌「こうかんのおと(巷間の音)」の発行人として番組について問題提起を行っていた。また、水中カメラマンとして活躍しており、讃えられてもいたのである。このように、勇気も積極性もある山添に対する原告の主張は全く理由がない。山添は、責任感も強く、「糸くず」がレンズに入るという不可抗力の事故に際しても、事前のカメラレンズの点検は行っており、糸くずの原因となるであろう交換用黒袋を新しくして欲しいとの要望も出していた。

また、稼働日数に関する原告の主張は杜撰な評価に基づくものであるし、昭和五二、三年当時は、原告会社と参加人組合が鋭く対立しており、ストライキも多く原告会社が組合員を仕事に就かせなかった時期であり、稼働日数について個別能力の評価要素に入れることは許されない。

<3> 寺本について

寺本は、昭和四八年以降は編集室に上司が同席することなく、昭和四九年から同五七年まで編集室を委された形となり、編集担当は四人から二人で一貫して管理職的な業務も合わせて編集業務を行っていたものであり、架電の点について、昭和四七年当時編集室の電話は、寺本及び若い安藤の二人がとったものであり、また、職場復帰直後の一か月程度であって、長電話をしたことはないし、それ以降架電が多いことはなかった。

ネガのつなぎ間違いの点については、寺本自身が覚えておらず、かつ、原告会社に始末書や事故報告書を提出したこともない。ところで、寺本は、原告会社の制作番組すべてについて編集業務に携わっており、原告会社作品の評価に深く関わっており「祗園の舞子さん」という作品で受賞したこともある。また、寺本は既に平成二年に定年退職しているが、原告会社は引き続きエディターとして来てくれるように要請するなど、その能力を評価していた。

<4> 高橋について

原告会社は、MBSナウの午後六時からの三〇分ニュース番組の選曲を請け負っており、その作業は最終的にはディレクターのOKまで曲の差し換えなどが続き、ディレクターの都合に合わせて深夜に及ぶことも度々ある。また、日常的に新しい曲などの知識を頭の中に入れておかなければならず、芸術的要素の強い業務である。

意欲・責任感というものは、その選曲がタイムリミットまでに適切なものをVTRに提供して作品として完成させることにより判明する。高橋がギャラクシー賞、芸術祭優秀賞、民族祭優秀賞、草の根賞の数々を受賞していることは、原告の主張を明確に否定するものである。

遅刻などの点についても、前日に業務が深夜に及んだ場合、原告会社では遅れて出勤することが認められており、問題とされたことはない。

自己中心的であるとの非難についても、高橋の選曲能力については、高い評価を受け、報道局の特別番組、例えば「ナムナニの登頂記録」「選挙特別番組」など半年も前から依頼を受けるケースがあり、自己中心的であれば、かかるケースは存在しないはずである。部会での離席についても、上司が質問に答えないので間がもたず小用に出たにすぎない。

<5> 河合について

河合は、一時期営業の仕事に従事したが、それ以外は一貫して制作部門で制作進行、アシスタント・ディレクター、ディレクターとして稼働し、平成二年五月一〇日自己都合により原告会社を退職した。

原告は、仮払金の未精算がかなりの額に上るというが、制作担当の社員ディレクターの場合、次から次へと放送日に間に合うように番組を完成させていく必要があるため、多忙を極め、やむを得ず仮払金の精算手続が遅れてしまうことになる。また、原告会社が外注(フリー)のディレクター等を雇う場合、番組制作に必要な金であっても、フリーの人(社員でない人)には仮払金を出さないので、社員の名義で仮払いをなし、仮払金受領名義人たる社員が、後日、現実に仮払金を遣ったフリーの人から出費関係の領収証などの資料をつけさせて精算をすることになるため、その精算が遅れる。右のような事情で結果として未精算が多額になるのであって、同人一人に責任を問うのは酷である。

次に、広島RCCのゴルフ番組制作に関するストライキによる職場放棄については、番組制作前のいわゆるロケ・ハンの際、現場状況は関係者に把握されていたし、また、ストライキ決定後、引き継ぎをしているので現場が混乱したことはないはずである。

『真珠の小箱』というシリーズ番組の『薪能』という作品で、再録音を余儀なくさせて迷惑をかけたとの件は、ゲストが言葉の訛がきつかったため、毎日放送の植田プロデューサーの申し入れによって再録音をしただけである。

その他、原告会社は、同人の仕事は遅く、また『河合独立プロダクション』と言われているごとく勝手気ままに仕事をしていたかのように非難するが、そのような事実はない。

<6> 西木について

西木は、入社三年後の昭和四五年にチーフ昇格しているように、原告会社がその録音技術を高く評価していたものである。それが、組合結成に参加したことにより、組合嫌悪の意思に基づいて差別待遇を行っていたにすぎないものである。

原告は、西木に遅刻が多いというが、最終の作品仕上げの作業が深夜にまで及ぶことがしばしばあり、そのために翌日の出勤時間を遅らせることは録音部では認められているのであり、ロケーションがあるときなどは三〇分前には出社して、機械点検しており、作業に支障をきたしたことは一回もない。

西木が業務連絡の電話を取り次がなかったという事実は全くなかった。管理職が休みで連絡できない緊急時には、西木自らロケーションに出かけたりして、業務に支障をきたさないよう努力していたのが実態である。協調性については、録音のみで作品を仕上げることはできないのであり、協力して良い作品を造る情熱を有している西木に対しては、理由にならない批判である。

原告は、西木に貢献度がなく、稼働率が悪かったというが、この主張は労働組合の戦術として認められているストライキを攻撃しているにすぎない。組合員である西木が指令に従ってストライキをするのは当然であり、こうした組合の戦術を嫌悪し、個人を不当に評価している原告会社にこそ問題がある。

西木の評価については、昭和五七年一一月芸術祭参加作品映像八〇「夏の凧」が五指に残ったことがあることに目を向けるべきであり、原告会社は、少なくとも組合結成までは、その評価を与えていた。

<7> 清水について

原告は、清水の業務仮払金の未精算をいうが、仮払金システムからいうと、フリーのディレクターに渡した部分があり、かつ、清水の場合は、制作進行の担当作品が多かったことが原因であり、他の課長らにも未精算金が相当あったのであり、この点を理由としたチーフ昇格差別は不当労働行為そのものである。そして、未精算金は、現在すべて精算済である。

清水に関しては、昭和五五年頃ADで制作した科学映画がフランスで賞を得ており、なんら能力を低く評価されるべきではない。

<8> 林について

林は、「大阪メモ」ではカメラマンに指名されていたほどであり、なんら能力において問題はなかった。

<9> 西村について

西村にとっては、専門としていたフィルム現像部門が徐々に縮小され、VTRに変わっていく中で、フィルム現像からVTR機械のメンテナンス(保守管理)などを行うように業務内容が変化した。そして、昭和五八年一〇月には現像部は廃止され、編集部に配属替えとなった。VTRが徐々に導入されてくる中で、西村はフィルムの現像作業のかたわら、VTR機械のメンテナンスを行うことになり、上司からメンテノートも渡されていた。このため西村は、個人で一〇数冊の専門書を購入して勉強したり、ソニーの研修に行ったりしていた。積極性があったことは明らかである。

ミスが多いとの点については、現像済カラーフィルムが赤味がかった事実はあるが、赤ランプを点灯してはいけないというものではないし、また、現像液を抜いてしまったとの点も、ラバーリップ混入のための緊急避難的処置であった。他の従業員にもミスは多々あり、西村のミスのみが誇張されるべきではない。

<10> 井上について

井上は、遅刻がないわけではなかったが、他の従業員と比べて多いわけではなかったし、また、確実さを第一においていたが、仕事が遅いとのクレームがついたことはない。

また、井上がカメラマン助手を長く勤めていたのは、カメラマンが増え過ぎたという人事配置のバランスの結果、原告会社の人事の都合上、カメラマン助手に滞留されていただけであり、本人の技量の問題ではなかった。昭和五一年当時カメラマン一〇人に対し助手三人という状況であった。

<11> 賀川について

原告が指摘する賀川の事故は、いずれも入社間もない時期の事故であり、賀川のミスとして責められるべきものは、バッテリーの過充電だけであり、他の事故は不可抗力であった。賀川に能力欠如があったとは到底いえない。

<12> 柏原について

柏原は、入社当初は報道編集室に配属され、昭和四九年一二月に番組撮影課(撮影助手)、同五〇年五月に報道撮影課に順次配転され、以後カメラマンとして各種仕事をこなし、多数の受賞作品を出したが、いわば仕事に熱心で有能であるが故に上司と対立したりして原告会社に失望し、結局、昭和六二年九月退職した。昭和五四年当時は一人前のカメラマンとしてすでにニュースを撮っており、番組も何本も撮影済であった。

韓国ソウルでの取材の際機材の落下破損があった件では、ケーブルを接続しているのを助手が忘れていたための事故であるが、韓国KBSの協力により予定どおりの取材をすませることができ、原告会社に損害や迷惑はかけていなかった。

<13> 田中について

田中は、入社時から退職時まで、一貫して撮影の仕事に従事し、始めは撮影助手(カメラマン助手)、その後カメラの仕組みや撮影のやり方を覚えていくに従って、カメラマンとしても稼働するようになり、昭和五一年七月に報道撮影課に配転された頃からは、カメラマンとして一本立ちして仕事をするようになった。

一人前のカメラマンと評価できる時点は、個人差もあるが、カメラの仕組みや構造を知り、カメラを回すだけなら一年も助手を経験すれば十分可能である。また、併用期間を卒業してカメラマンとして独立して仕事を任されるようになった時点(同人においては昭和五一年七月時点)では、原告会社自身もそのカメラマンを一人前のカメラマンと認めたことになる。

<14> 間宮について

間宮は、昭和五〇年六月からカメラマンとして稼働しており、なんら経験上問題はなく、既に一人前のカメラマンとして扱われていた。

<15> 田沢について

田沢は、構成力なしではできない「持丸君は星になった」(昭和五二年)、「雄琴の火は消えた」(同五四年)といういずれも全国ネットの三〇分間ドキュメンタリー番組を撮影しているうえ、優秀賞受賞の事実がある。

田沢の能力に欠けていた点を見いだすことはできない。

<16> 柏渕について

柏渕は、CM制作を中心に制作関係の仕事(ディレクター、プロデューサー等)に従事してきた。同人は、昭和五〇年当時からCMの企画演出の仕事をやってきたし、マルホ薬品のCM、常磐薬品のCM(泉ピン子主演の『クルクルやかた』)等、好評を博した作品も多数手がけてきた。

また、稼働日数が少なかったというが、原告会社の把握している稼働日数は現実の稼働日数に比してかなり少なく、さらには、課長以上の職位にある者が仕事の割り振りをするに際して、組合がなんらかの闘争に入り、ストライキや土日出勤拒否などが予想される場合は意図的に組合員を仕事からはずすことも多かったので、表面に現れた数字だけで稼働日数を評価するのは適切でない。昭和五二年以降、フリーディレクターが導入され、必然的に社員ディレクターの仕事が少なくなった事実もあり、このような柏渕本人に責任のない事情も稼働日数の検討において考慮されるべきである。また、同人が他の部員に比べてルーズな処理をしていた事実はない。

<17> 新家について

新家は、始めの約八か月間は撮影助手(カメラマン助手)として稼働したが、その後は一本立ちした報道カメラマンとして、京都支局エリアのニュースを中心に撮影の仕事に従事してきた。なお、支局勤務の特性として、番組制作に関与することはほとんどなかったし、それが可能な状況ではなかったのであるから、本人の意欲以前の問題である。本社勤務になってからは、報道撮影以外に、「映像80」「映像90」という看板番組(毎日放送のドキュメンタリー映像番組)を担当したりして、充実した仕事をこなしていた。

原告会社は、同人に前記の看板番組を担当させるなど、同人の技術に信頼を置いていた。同人には各種受賞作品も多く、技術や作品の質には定評があった。

京都支局時代の取材協定破りも、本社からの連絡の遅れと機材の到着の遅れで渋滞に巻き込まれ、取材現場到着が遅れてしまったことによるもので、必要な場面を撮影してカメラマンとしてベストを尽くしただけで、本人に責任を問うのは筋違いである。

<18> 矢部について

原告は、矢部が不良素材を作った失敗があったというが、同人はその場で再録音を行い、結果的にOA(放送)を済ませており、なんら問題は生じていないし、環境が悪かったこともあり、非難するに当たらない。

むしろ、矢部は、毎日放送のディレクターからの指名や、受賞した作品も多く、優秀との評価を外部から得ていた。

<19> 山口について

山口は、昭和五二年から同五三年にかけて、番組編集を担当しており、協調性がなく技術的に一人前でなかったなどとは到底いえず、昭和五四年以降の山口の技術をみてもなんら能力的に欠けるところがなかった。

第三争点に対する判断

一  副部長、課長と労組法二条但書一号の利益代表者

1  原告会社の職制等の職務内容

昭和五二年から同五四年頃までの間の原告会社における部長、副部長及び課長の職務内容の概要は、以下のとおりであることが認められる。

(一) 部長の一般的職務

(1) 部長は、社長の定める業務運営方針に基づき、担当取締役(取締役会)の指示を受けて、部の執行方針を定め、部業務全般を統括管理することを基本職務とするとされ、部の所管事項の統括責任者であって、部内の人事労務関係業務、すなわち、チーフ以下の所要人員の異動・配置の決定と役員への報告等に関する人事異動業務、チーフ以下の社員の人事考課決定の業務、課長の人事考課についてはその案の起案業務、服務規律の統制業務等を行い、課長から日常の就業管理に関する報告を受け、また、部の運営方針・業務計画の原案を決定して役員会の承認を受け、各部特有の管理費についての立案・執行を行うなどの権限を行使していた(<証拠・人証略>)。

(2) 社員の雇用、異動、待遇付与、出向、休職及び解雇に関する決定は、役員が役員会において所定の手続により行い、また、原告会社を代表して組合との団体交渉に出席するのは、役員及び総務部長に限られ、他の部長はこれに出席しなかった(争いがない)。

(3) 営業面では、最大取引先である毎日放送との交渉については、千里部門及び報道撮影課に関する年間業務委託契約に関しては、主として茨木専務と平田取締役があたっていた(<証拠略>)。

なお、原告会社の就業規則には、一〇条に、「社員の雇用、異動、待遇付与、出向、休職、解雇は所定の手続を経て、取締役会で決定する」との記載があり、給与規程には、役職手当及び職務手当は取締役会において決定する旨の記載がある(<証拠略>)。

(4) また、役員(現業役員を除く)が出退勤時間を拘束されないのに対し、部長は、副部長、課長及び一般社員同様に勤務時間(午前一〇時から午後六時まで)を拘束されていた(争いがない)。

(二) 副部長の一般的職務

副部長は、部長を補佐し、部長の定める分担業務及び部長の委任業務を代行管理し、部長が不在のとき又は空席のときは部長職を代行していた。原告会社では、このような実態に基づいて、昭和五七年四月一日付で部課長等の権限について規定した「職務分掌規定、職務権限規定」が作成されたが、副部長の職務職責、職務権限については、部長と別個の定めがなく部長と同格に扱われていた。

副部長は、歴史的には、例えば、撮影部は堂島本社に所属していたが、同部の報道撮影課は千里事業所内に所属していたため、部長の補佐役として副部長を置いて同課に配置したり、また、新設の部等において昇格者の経験が浅く、あるいは年齢が若い場合、発注先の毎日放送に対する配慮から、部長という名目にするには尚早であるため、副部長の職位で統括管理を任せることがあった。副部長は、部長とともに、各部のヘッドとして後記の部長会に出席する資格を有していた。(<証拠・人証略>)

(三) 課長の一般的職務

課長は、部長又は副部長の指揮監督を受け、部門の執行方針に基づいて、部長又は副部長の定める業務を管理することを基本職務とされていた。具体的には、部長又は副部長により課せられた業務を遂行するために、課員を指揮監督して労務管理を行い、日常の就業管理として、勤務表のチェックを行い、作業編成人員を決定し、部下の勤務時間、休日、休暇、欠勤、勤務変更、日帰り出張の決定をし、服務規律に関しては業務命令違反や職場離脱に関する管理を行うなどし(但し、表彰と懲戒の決定はそれぞれ総務部長と取締役会にある)、また、チーフ以下の人事考課については、総務部から回付されてくる考課表に基づき、第一次の起案を行い(最終的な考課の決定は部長又は副部長)、部の運営方針・業務計画についての第一次の起案を行っていた。(<証拠・人証略>)

(四) 部課長会、部長会

(1) 原告会社は、原則として定例では月一回、また必要とあれば臨時に部課長(副部長を含む。以下同じ)をメンバーとする部課長会(幹部会ともいう)を招集していた。部課長会においては、営業活動上のものとして、月次あるいは累計の会社の経理内容が、売上、収益、営業の受注、損益状況等について制作原価や人件費等も含めて予・実算あわせて報告され、機材購入費等に関する各部の調整、会社の経営方針及び今後の営業戦略に関する話題も出された。また、必要に応じた人事労務上の問題、例えば、春闘時等のストライキ対策としてスト予測、スト実施による欠員のカバー態勢(管理職、非組合員らの配置や外注への対応)などが議題にされ、役員との意思疎通がはかられた。部課長会は、部単位で部課長宛に回覧や書面配布による招集手続がとられ、定足数はなく、ロケや渉外などで不在の部課長が出席しないまま開催されることがあり、また、議題について投票や挙手の方法により員数を確認して決議されるようなことはなく、会議内容につき議事録が作成されることもなかった。(<証拠・人証略>)

(2) また、部課長会とは別に部長及び副部長をメンバーとして構成される部長会の議題は、業務連絡的なものを内容とすることが多く、また、構成員は比較的多忙であることから全員が揃うことは少なく、総務部からの持ち回りにより意見調整が行われていたこともあるが、部長会では、後記のように、課長等への昇進について各部間での昇格候補者の調整と決定も行われていた(<証拠・人証略>)。

(五) 部課長の日常業務

原告会社における部課長の番組等の制作過程における日常業務は、以上のほかに、次のものがあった。なお、副部長がいる部においては、副部長が部長の職務の全部又は一部を代行していたことは、前記(二)認定のとおりである。

(1) 営業部は、原告会社の窓口として、顧客からテレビ番組、CMフィルム、PR映画等を受注し、営業に関する計画を立て、売上を計上し、毎日放送その他のテレビ局及び代理店と交渉することを担当業務とするが、部長は、営業基本計画につき、役員会で決まった方針の枠内で具体案を決定して実行する権限を有し、担当役員の承認を得て売上実施計画を決定していたものであり、また、課長は、部長とともに、得意先別担当割の決定や営業計算(見積金額・売上集計)の実施に関与していた(<証拠・人証略>)。

(2) 制作関係の各部(テレビ制作部、CM部、ビデオ部)における管理職の職務の概要は、以下のとおりである(<証拠・人証略>)。

まず、企画制作の基本方針については、部長が決定し、担当役員の承認を得ることとされている。もっとも、原告会社の制作する番組の企画構成については、スポンサー、代理店、毎日放送(同社の番組の場合)及び原告会社の四者で話し合うことになっているが、原告会社側からは、必ずしも制作部長が出席するとは限らず、適宜に課長、ときにチーフ、さらには平社員が制作担当の社員として出る場合もある。

制作に必要なプロジェクトチームの編成や、制作担当者の決定は部長ないしは課長が決定し、課長が決定したものについては部長の承認を受けていた。制作担当責任者のプロデューサーは部課長が充てられていたが、チーフ以下の社員も、プロデューサー補やディレクターとして作品制作の直接の担当者となる場合があった(以下で「担当者」という場合には、後者も含む)。

制作原価基準設定のための標準制作原価計算書(コスト・モデル)については、前年実績を基準として課長が起案したものをもとに部長が決定し、担当役員の承認を受けるとされていたが、最終的には会社全体の予算の枠内で決定する必要があるため、部長の決定内容がそのまま通るとは限らなかった。

個別の受注作品に関しては、必ず個別原価計算書によって見積り予算の伝票を切ることになっていたところ、担当プロデューサー(部課長)がその見積りをし、部長が承認することとされていたが、現実には、まず、標準制作原価をもとに担当者が伝票を記入した後、当該制作部の部課長を経由し、さらに、管理課で内容が点検され、担当者に対してクレームがつく場合もあり、その後に総務課のチェックを経て、最終的に専務取締役に報告されていた。

番組制作に直接関係する出費については、個別原価計算書に基づき担当者が作成した制作支出伝票をもとに課長が決定し、部長がこれを承認することとされ、個別原価計算を超えるものは部長が決定していた。この伝票の流れも個別原価計算書と同様であり、出金するのは総務部であった。制作支出伝票のチェックのためには、個別原価計算との照合が必要であるが、個別原価計算書の伝票自体は、原価の照合を行う管理課と出金のチェックを行う総務部で保管され、部課長は、手元に控えも残されなかったので、必要な場合には管理課ないし総務部に出向いて確認することになっていた。

外注スタッフ、タレントとの折衝及び契約内容については、年度初めに課長が決定して部長が承認していた。もっとも、実際の人選及び報酬の決定については、年度初めに予め決定された枠内で直接の担当者が行う場合もあった。

制作スケジュールの調整と決定については、課長が決定して部長の承認を得るとされていたが、具体的には、まず、各制作担当者がスケジュールの予定を立てて作業連絡伝票を作成し、課長がそれを一覧化したスケジュール表をもとに部内調整を行い、また、右伝票が集約される管理課の呼び掛けで、部門間(制作各部門、技術各部門)のスケジュールを調整するためにスケジュール会議が開かれていた。同会議の出席者は本来課長とされていたが、チーフが出席する場合もあった。なお、制作が遅延した場合の事後処理方法は部長が決定していた。

(3) 技術部門の各部課(撮影部番組撮影課、録音部、編集部番組編集課)においては、前記制作部門とのスケジュール調整において、制作部門から、作業連絡伝票などを通じて、番組制作に必要なカメラマン、録音・編集スタッフ等の技術担当者を確保すべき旨の希望が出ると、それに対応して、各課長が部長の承認を得て部課内で技術担当者の割り振りをしたうえ、これらの者と打ち合わせを行い、また、各部長が担当役員の承認を得るなどして外注スタッフ及び機材を確保し、料金を決定していたもので、課長もこの業務を補助していた(<証拠・人証略>)。

(4) 現業関係(撮影部報道撮影課、編集部報道編集課、録音部、現像部、素材運用部)の部課長は、毎日放送との業務委託契約に基づき、毎日放送のニュース番組のディレクター、番組プロデューサーに協力して、撮影・現像・編集・録音の現場作業に従事していた(争いがない)。

千里事業所は、二四時間勤務体制であり、部課長も一般社員と同様に輪番勤務に入って宿直もして、ニュースの突発に備えていた(<証拠・人証略>)。

また、千里事業所の日常の業務については、毎日放送のデスクから受けた取材、編集作業等の指示及び発注につき、部長の承認を得て、担当業務の割り振りを行い、毎日放送と折衝していたが、管理職が不在のときには一般社員が代わりに担当業務の割り振りを行うこともあった(<証拠・人証略>)。

(5) 各部長は、前記制作原価以外の番組制作に直接関係しない管理的出費(修理費、備品消耗品購入費、会議費など)について、部管理費の名目で、各年度ごとに、課長の起案をもとに予算案を決定したうえでこれを総務部へ申請し、取締役会で承認された予算枠内で管理費を管理し支出していた。具体的な出金の手続きとしては、担当者が振替伝票に記入して、部課長を経由して総務担当者に回され、その後に出金の手続きがとられていたが、伝票に関しては最終的には専務取締役に報告されていた。(<証拠・人証略>)

(6) 部長、副部長及び課長は、原告会社の仕事の性格上、純粋な管理職というよりも、プレイイング・マネージャー的な面があり、営業部であれば自ら営業に出たり、制作部であれば自らプロデューサーとして番組制作を担当したり、技術部門であれば自らカメラ撮影に従事したりしていたもので、千里事業所では輪番勤務の日程が組まれ、ニュースの編集、現像の仕事に携わっていた(<証拠略>)。

(7) なお、原告会社においては、各部の職務分掌や部課長等の職務権限について、設立当初から明確に書面上の規程が存在していたわけではなく、昭和五四年頃には各部の事務分掌が列挙された「事務分掌規程」と題する書面が各部に配布されていたが、これには管理職の職務権限に関する定めはなく、大阪地労委における本件審理中に、各部の部課長の職務権限の概要を整理したものとして「各部職務と権限(要旨)」と題する書面が存在することが明らかとなった。また、本件の中労委の再審査中に、昭和五六年七月から同年一二月にかけて実施された部課長合同の研修会において、部課長の職務内容に対する分析、整理がなされた結果を踏まえ、各部の担当業務、部課長等の職務権限につき定めた「部課長の担当業務内容及び職責」と題する書面及び各部課長等の共通の職務権限につき定めた「労務管理共通職責基準」と題する各書面が作成された。さらに、原告会社では昭和五七年四月一日付けで部課長等の権限につき詳細に規程した前記「職務分掌規程、職務権限規程」と題する書面を作成し、これがその後何度か改訂されていた。しかし、昭和五二年ないし同五四年当時においては、部課長等の権限については、原則としては右のような慣行があったものの、必ずしも書面上の明確な規程に基づき厳密に部課長あるいは役員間の職務分掌がなされて行使されていたものではなく、また、実際の作品制作過程においては、個別の作業内容については直接の担当者の方が詳しいことなどから、一般社員が部課長の指示を仰ぐことなく、独自に一次的な判断を下すこともあった。(<証拠・人証略>)

2  副部長がいわゆる利益代表者に当たるか否か

(一) 前記1(一)に認定したとおりの原告会社における部長の一般的職務の内容に照らせば、原告会社における部長の職位は、昇格人事を含む人事異動、人事考課、服務規律等につき決定権限を有するものであるということができるから、労組法二条但書一号にいう「雇入解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者」に該当することが明らかであるというべきである。

(二) ところで、副部長の一般的職務の内容は、前記1(二)のとおり、部の業務内容、部長の在籍の有無等によって具体的には各部の差異があるものの、副部長は、部長の在籍していない部においては部長と同一の職務を同一の職務権限をもって行ない、部長の在籍する部においても、部長を補佐し、その職務の一部又は全部を代行し、いずれも部長とともに部長会に参加することによって、単に部長の日常業務の代行にとどまらず、チーフ及び課長の昇格候補者を決定する権限を行使する等の昇格人事を含む人事異動、人事考課、服務規律等につき決定権限を有しているのであり、そのために、副部長の昇格手続は、所属部長が推薦した課長の中から担当役員が取締役会に諮って決定する場合もあるが、部長への昇格手続に準じ、直属の役員により部の運営を仕切らせるに相応しいと判断されて推薦された候補者の中から取締役会で決定するとされているのである(<証拠・人証略>)。したがって、副部長の職務内容・職務権限は、部長のそれと比べて質的に異なるものではないというべきであるから、原告会社の副部長の職位にある者は、労組法二条但書一号にいう「雇入解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者」に当たるというべきである。

もっとも、原告会社の就業規則一〇条には、「社員の雇用、異動、待遇付与、出向、休職、解雇は所定の手続を経て、取締役会で決定する」と規定され、人事労務関係業務の決定権は取締役会にあるとされているが、取締役会の右決定は、前記のとおり、部長又は副部長ないし部長会が従業員に対する監督的地位に基づいて決定判断して取締役会に対して具申した人事労務関係事項を基礎として行われるのであるから、副部長は部長とともに取締役会のする人事労務管理の決定に直接的に関与しているものというべきである。

(三) そうすると、原告会社の副部長の地位と組合員の地位とは両立し得ないから、組合員籍を保持したままの従業員を副部長に昇格させなかったとしても、これをもって不当労働行為と評価することはできないというべきである。したがって、本件命令が、組合員の副部長への昇格につき不当労働行為があったとして、木下、山添及び寺本につき副部長への職位を含めた昇格を命じた部分は、その余を判断するまでもなく、違法であるといわざるを得ないから、取り消されるべきである。

3  課長がいわゆる利益代表者に当たるか否か

(一) 原告会社においては、課長は、管理職の末端に位置づけられているが、これが労組法二条但書一号のいわゆる利益代表者に当たるか否かは、職制上の名称如何によるものではなく、その職務の実質的内容によって認定されるべきものである。前記1(三)、(五)に認定したとおりの課長の職務及び権限の内容によれば、組合との団体交渉への出席権限はなく、その一般的職務は、部の執行方針に基づき、上司である部長又は副部長の指揮の下に主として日常の就業管理等を行うにすぎないものであるということができる。具体的には、部の運営方針の策定については、その原案を第一次的に起案することにとどまり、原案を決定する権限を有するわけではなく、人事異動や人事考課については、部内における最終的な決定権も有しておらず、課員のチーフへの昇格に関してみれば、部長の承認を得て昇格候補者を決定し具申する権限を有してはいるものの、右候補者は部長会で決定される性質のものであるから、右具申内容がそのまま確定するとは限らず、課長がその自足的ないしは直接的権限を有するわけではない。その日常業務をみても、各課において一般社員及びチーフとは異なる管理職としての職務を分担してはいるものの、これも部長又は副部長ないしは担当役員の補助者として関与するに過ぎないし、むしろ原告会社の課長は、千里事業所の現業関係をはじめとして、プレイイング・マネージャーとして、実際には、チーフ以下の一般社員と同じ職務を担当しているのである。また、原告会社においては、図一、二及び別表一の1、2のとおり、昭和四一年から同五七年までの間に部課制の組織に変還があったが、課を有しない部がある一方、各部のいずれにも所属しない課が存在し、また、課長のいない部及び課があるなど、少なくとも昭和五二年ないし昭和五四年当時までは、職制機構が十分に整備されていなかったのであって、原告会社の課長は、人事労務管理に関する職務に従事することがあっても、それは補助的、間接的なものであったというべきである。このような担当職務の実態及び権限内容に照らしてみると、原告会社の課長が労組法二条但書一号に該当する利益代表者に当たるということはできないというべきである。

(二) もっとも、原告会社の課長は、その日常の職務及び部課長会への出席を通じて、会社の損益状況や人件費などの経理内容や経営方針のほか、原告会社のストライキ対策等についても知りうるから、原告会社の機密の事項に接する立場にあることを否定できない。

しかしながら、そもそも労組法二条但書一号の趣旨は、組合の自治に委ねられるべき組合員の構成員の範囲につき、労働組合の自主性を確保する見地から、使用者側の立場にあると評価できる一定の労働者をその対象外としたものであって、一定の労働者を組合員から除外することにより得られる使用者側の利益は副次的なものに過ぎない。原告会社の損益状況、経理内容及び経営方針などについては、組合員であると否とにかかわらず、一般的に企業秘密として社員が守秘義務を負うことがあるのは格別、それを知り得る立場にあることが直ちに組合員の地位とは相容れない「労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項」に接することになるということはできないというべきである。また、部課長会においては、人事労務上の問題としてストライキ対策等についても議題とされているが、課長は団体交渉など具体的な労使交渉を担当する権限を有するものではなく、また、部課長会は、定足数がなく、課長には必ずしもこれに出席すべき義務があるわけではなく、正式の議事録も作成されず、その内容もストライキ対策としてストの予測や欠員についてのカバー態勢などが話題にされる程度であって、それ自体が労使関係に関するなんらかの議決権限を行使しているとはいえないのであるから、組合員が課長の職位に就いたとしても、その職務上の義務と責任とが組合員としての誠意と責任とに抵触し組合の自主性が損なわれることになるとまで評価することはできないというべきである。

(三) 以上のとおり、原告会社おける課長の職位は、労組法二条但書一号の利益代表者には該当せず、組合員資格と両立できないとはいえないから、原告会社においては、従業員が組合員籍を保持したままで課長の職位に就くこと自体は許容されているものであるということができる。

二  チーフ昇格を命じた本件命令の正当性について

1  チーフの職務

(一) チーフは、職制の末端とされていたが、特定の職位としての限定された職務はなく、その仕事内容は一般社員のそれと変わらなかった(争いがない)。

(二) チーフは技術的に一人前であると評価されていることを示す地位に過ぎず、チーフに対して支給される手当は、役職に対するものではなく、チーフの有する技能を評価して与えられていたものであって、特に支給時に支給される定数に制限があるわけではなかった(<証拠・人証略>)。

2  チーフへの昇格基準・昇格手続

(一) 原告会社は、組合が昭和四八年春闘以降組合員の昇格問題を取り上げていたことに対応して、昭和四九年六月、組合に対し、一般社員からチーフへの昇格基準を記載した書面を交付した。その書面には、昇格基準となる主な項目として、<1>原則として二七歳以上であること、<2>原則として六年以上勤務していること、<3>一般社員として能力が優秀であること、<4>勤務成績が良好であること、<5>業務についての研究心が旺盛であること、<6>部内で協調性があること、<7>社の業績向上に積極的に取り組んでいること、<8>過去において懲戒事由に抵触していないこと、が掲げられていた。(争いがない)

(二) チーフの職位への昇格手続については、まず総務部において、年齢二七歳以上で勤続六年以上の昇格基準に該当する者をリストアップし、これを各部課長に送り、該当者所属の各部において、課長が中心となって、その中から技術を最重視して昇格候補者を決定し、部長ないし副部長の承認を得てこれを具申(推薦)する。次いで、この被推薦者について、総務部が中心となって各部間の調整を行い、さらに部長会において調整を完了して昇格者を決め、役員会で昇格者を了承する、という手順が踏まれていた。

チーフへの昇格は、年齢と勤続年数だけで決定されるわけではなく、右(一)の<3>ないし<8>に掲げた能力基準も総合して考慮して決定されていたことから、年齢及び勤続年数の基準に達しないために総務部でリストアップされなかった者でも、例外的に所属長の推薦の対象にされてチーフに昇進する者がいた。逆に、<1>の年齢及び勤続年数の基準を満たす者であっても、各部の推薦が得られなければ昇格することはなく、また、その推薦があっても、各部門の調整や、会社の財政状況等の事情により昇格が見送られることがあった。(<証拠・人証略>)

3  チーフへの昇格状況

(一) 争いのない事実及び証拠(<証拠・人証略>)を総合すれば、昭和五〇年までに入社した一般社員について、原告会社設立時から昭和五九年三月までの間のチーフへの昇格状況等は、別表二(入社年順)(略)及び三(昇格年順)(略)のとおりであることが認められる。

なお、右各数値の認定の方法は次のとおりである。まず、昇格年齢及び勤続年数の算定については、入社年月と入社時年齢につき一月未満は切り捨て、月単位で計算した。また、各証拠に食い違いがあり、いずれとも認定しがたいものについては、組合員の場合には、入社年月日は早いものを、昇格時期は遅いものを、学歴は高学歴となるものを採用した。契約社員として入社した後に正社員となった組合員については、入社年月日欄には契約社員として入社した時点での数値を記入し、正社員となった時期の判明している場合は同欄括弧内に「正」と付記して併記し、勤続年数についても、勤続年数欄の右横括弧内に正社員となってからチーフ昇格までの期間を併記した。また、復帰者については、入社年月を昭和四一年三月とし、実際に復帰した昭和四七年三月を入社年月として算定した結果を、括弧内に併記した。

各表中、非組合員には「非」、組合員には「組」と付記した。本件命令で救済の対象としている組合員については氏名に下線を付した。備考欄には、入社前の同種職種の前歴の有無・内容等を付記した。

さらに、本件命令においてチーフ昇格を命じている一四名については、仮に本件命令のとおりに右の者らが昇格した場合の、昇格年月、昇格年齢及び勤続年数につき、実際の昇格欄の下に、大括弧[ ]内に併記した(入社当時契約者であった者については、その大括弧の右横に、正社員となった後の仮定勤続年数を括弧内に併記した)。

(二) 前記2(一)の基準は、年齢二七歳以上、勤続年数六年以上という形式的基準自体、それが昭和四九年六月の春闘時の団体交渉における組合側の追求に対応し、その時点での一応の目安として一度だけ示されたものにすぎず、右基準によってチーフ昇格を行う旨の合意が原告会社と組合との間でなされたものではなく、原告会社の創立当初は、人数が少なく、経験者がほとんどであったことから、右基準が存在せず、能力評価が中心での選考がなされており、また、昭和四九年以降は右形式的基準として要求される数値が技術の進歩等に伴って徐々に大きくなっていた(<証拠・人証略>)。

そして、別表二及び三によれば、一般社員の昇格状況は、昇格までの所要勤続年限については、組合員と非組合員とを問わず、入社時期が遅くなればなるほど長くなる傾向がみられ、非組合員であっても昭和五二年以降の昇格者は前記2(一)の<1><2>の基準年数を経過後に昇格していた。例えば、組合員の中でも、比較的早い時期の昭和四四年入社の勝野繁喜と本多健治はそれぞれ勤続年数が約三年と五年で、年齢も二七、八歳で昇格しているが、その反面、非組合員であっても、昭和四四年入社の喜田正昭と昭和四六年入社の松井伸和はいずれも勤続年数で約八年を要し、年齢も三〇歳前後となっており、また、昭和四九年入社の非組合員中には昭和五九年までにチーフに昇格していない者もいた。また、同期入社者間も含めて各人のチーフ昇格年齢及び勤続年月は、まちまちであり、年齢及び勤続年数に関し、年齢二七歳以上で勤続年数六年以上であれば昇格するといった、形式面における原則的な一定の基準は見出し難いといわざるを得ない。

4  昇格差別の有無

(一) 原告会社おけるチーフの職位は、前記1に認定のとおり、管理職として位置づけられておらず、ポスト数の制約はなく、昇格のために必要とされる能力的な要件も、あくまで技能的に優れていることが求められているにすぎない。

前記2、3に認定した事実によれば、原告会社においては、チーフ昇格の選考に当たって必ずしも固定化された形式的基準を有してこれに拘束されて運用されてきたものではないが、別表二及び三を通覧すれば、昭和四七年組合結成以後、昭和五四年六月までのチーフ昇格者に関し、本件命令中の表6のとおり、同表に掲げられた非組合員(三〇歳以上の途中入社者を除いた一七名)と組合員(復帰者を除いた一一名)の昇格年齢及び勤続年数を比較してみた場合、両グループの各平均値には格差が存し、両グループの全体としての比較においては、非組合員グループの方が組合員グループよりも昇格年齢が若く、昇格時の勤続年数が少ないことが明らかであるということができる。そして、別表二及び三の昇格年月及び勤続年月につき月以下については六月未満は切り捨て、七月以上は切り上げて年単位に修正したものを本件命令中の表6に置き換えてみると、非組合員については、昇格年齢は阪下俊明が二八歳、坂口良雄が二九歳、喜田正昭が三〇歳、林厳と松井伸和が三一歳にそれぞれ修正され、勤続年数は松野純一が四年に修正され、他方、組合員については、昇格年齢は安藤菊英と河合政博が二九歳、田中義久が三一歳にそれぞれ修正される結果、昇格年齢の平均は、非組合員グループについては二七・五歳、組合員グループについては二八・七歳に、勤続年数の平均はそれぞれ五・三年と七・四年となる。しかしながら、右のような全体的比較をもとに、組合員グループと非組合員グループとの間にチーフ昇格に関する格差があるとして、不当労働行為による差別的取扱いの事実を認定するためには、比較の対象となる両集団の成員の間に、その勤務実績ないしは勤務成績に関する等質性のあることが前提となるというべきである。

(二) ところで、原告会社においては、比較の対象数が比較的少人数であるほか、前記のとおり、原告会社においては昭和四一年の創立以後、徐々にチーフ昇格者の昇格年齢が高くなり、勤続年数が長くなっていたところ、別表二及び三のとおり、昭和四三年までの入社者は復帰者五名と西木を除けばすべて非組合員であったのに対し、昭和四四年入社者は組合員と非組合員とが同数となり、昭和四五年から昭和四八年にかけては組合員が多数を占めたというように、非組合員と組合員との人数比は入社年次ごとにまちまちであること、比較の対象となる社員の学歴も様々で、新卒者だけでなく中途採用者も多く、入社前歴や入社年齢もそれぞれ異なるうえ、配属される部署により、カメラマン、ディレクター、録音、編集等職種も様々であったことが認められる。

そうすると、本件においては、本件命令中の表6に掲げられた両集団間における等質性は認められないといわざるを得ないのであって、結局、右の全体的比較によって組合員と非組合員の集団間の平均値になんらかの格差が認められたとしても、右の格差の生じた理由には様々なものが考えられるのであり、また、仮に両集団間に全体として格差が存在し、その一部は原告会社の差別的取扱いに起因する可能性があったとしても、右格差が存在する事実をもって、当然に個々の組合員がチーフ昇格に関する差別を受けていると認定するには不十分であるというべきである。

(三) そこで、本件命令がチーフ昇格を命じた対象の組合員(間宮、田中、西村、柏渕、田沢、清水、林、新家、井上、本多、矢部、賀川、山口、柏原)につき、原告会社が昭和五二年ないし昭和五四年の時点でチーフに昇格しなかったことに関し、別表二及び三に基づいて、個別に検討することとする。

(1) 昭和四五年入社の間宮、田中及び西村について

証拠(<証拠・人証略>)に照らし、間宮、田中及び西村の日頃の勤務成績や能力が特別に劣っていた事実は認められず、また、同人らと同期入社の社員は藤田幸司及び松本純一のみであり、右二名は、いずれも間宮ら三名よりも早くチーフに昇格していることが認められるが、右二名の勤続年数及び昇格時の年齢の差はそれぞれ約三年及び四年と大きく、右二名の非組合員の存在をもって直ちに間宮、田中及び西村をも同時期にチーフに昇格させるべき状況にあったものとはいえないところ、前記3の(二)のとおり、昭和四四年入社の喜田正昭及び昭和四六年入社の松井伸和のように非組合員中にも勤続年数で七年を超え、年齢で二九歳ないしは三〇歳を超えた後にチーフに昇格した者もあり、一定年齢及び勤続年数に達すれば一律にチーフ昇格を認めるという実態にはない。

また、前記証拠によれば、原告会社においては、撮影の職種に関しては、撮影助手からカメラマンになって後、一定の経験を積むことがチーフ昇格に関しての能力の判定基準の一つとして考慮されており、原告会社におけるチーフ昇格が単に一定年限を経た者に対して自動的になされるものではなく、能力評価を加味して決せられていたことが認められ、このような昇格基準を用いること自体は原告会社の裁量の範囲内というべきであるところ、間宮がカメラマン助手からカメラマンとなったのは昭和五〇年頃であり、昭和五二年には所属長からチーフ昇格の具申もだされたが、その後の人数の調整により同年の昇格は見送られ、昭和五三年には会社の経営状況の悪化からチーフ昇格者は一名もおらず、結局、同人は昭和五四年にはチーフに昇格していること、田中については、助手からカメラマンとなったのは昭和五〇年頃であるが、その後も昭和五一年七月頃までは助手としても稼働しており、結局、昭和五四年にはチーフに昇格していることが認められるところであり、西村に関しては、昭和五二年当時は現像部に所属しており、原告主張の積極性がないとかミスが多いなどの点については、それが主観的評価にすぎず、必ずしも西村固有のことではなく、同人の勤務実績ないし能力につき格別問題があったことは認められないが、それ以上に特定の非組合員と比較して、その者より早くチーフへの昇格を決定すべき勤務実績ないしは能力を有しているとの証明も不十分である。

以上に照らしてみると、昭和五二年三月の時点で間宮、田中及び西村をチーフに昇格させないことが、原告会社の人事権の裁量の範囲を逸脱し、組合員であることを理由とした不利益取扱いになると認めるには不十分である。

(2) 昭和四六年入社の柏渕、田沢、清水、林及び新家について

まず、柏渕、田沢、清水及び林の四名については、証拠(<証拠・人証略>)に照らしても、同人らの日頃の勤務実績や能力が特別に劣っていた事実は認められないものの、前記3の(二)のとおり、原告会社においてはチーフ昇格までに要する勤続年数ないしは年齢が設立以後徐々に高くなっており、同期入社の非組合員の松井伸和が年齢三〇歳九か月、勤続年数が七年九か月で昇格しているのをはじめ、昭和四六年以降に入社した非組合員は、経験者として三〇歳を超えて中途採用された花崎公正と大庭広和の二名を除けば、いずれも勤続年数六年、年齢二七歳との基準を過ぎても直ちにチーフに昇格してはいなかったところ、昭和五二年三月の時点では、柏渕、田沢、清水及び林は未だ勤続年数が六年にも達していなかったのであり、前記証拠に照らしても、右時点において同人らが、同期の松井ら他の非組合員よりも早くチーフへの昇格を決定されるべき勤務実績ないしは能力を有しているとの証明も不十分である。

以上に照らしてみると、昭和五二年三月の時点で柏渕、田沢、清水及び林をチーフに昇格させないことが、原告会社の人事権の裁量の範囲を逸脱し、組合員であることを理由とした不利益取扱いになると認めるには不十分というべきである。

また、新家については、証拠(<証拠・人証略>)に照らしても、同人の日頃の勤務実績や能力に特段の問題のあった事実は認められないが、他方、同期入社の比較で対象となる非組合員は右松井伸和一名に過ぎず、別表二及び三のとおり、同人は、昭和五四年四月に年齢三〇歳九か月、勤続年数七年九か月でチーフに昇格したが、同人の昇格年齢及び勤続年数が直ちに同期入社の者についてのチーフ昇格の最低基準として認められるものではなく、チーフ昇格に関する一律の形式基準が見出しえないことは前記認定のとおりであるうえ、新家は、昭和五四年三月時点で年齢二八歳一一か月、勤続年数七年七か月であるが、原告会社に正社員として採用されたのは昭和四九年四月であり、正社員としての勤続年数は昭和五四年三月の時点では四年一一か月にとどまっていた。

以上に照らしてみると、同人を昭和五四年三月の時点でチーフに昇格させないことが、直ちに原告会社の人事権の裁量の範囲を逸脱し、組合員であることを理由とした不利益取扱いになると認めるには不十分である。

(3) 昭和四七年入社の井上及び本田について

証拠(<証拠・人証略>)に照らし、井上の日頃の勤務実績や能力が特段に劣っていた事実は認められず、他方、井上及び本田と同期入社の社員は非組合員の花崎公正のみであるところ、同人は経験者として途中入社したのであるから比較の対象とはならず、また、別表二及び三のとおり、井上及び本田の前年に入社した非組合員の松井伸和は昭和五四年四月のチーフ昇格時で年齢三〇歳九か月、勤続年数七年九か月であること、井上及び本田の翌年の入社者には非組合員がいないが、昭和四九年入社の非組合員中では、経験者として中途入社をした大庭宏和を除けば、河村己代治が昭和五九年三月に年齢三〇歳二か月、勤続年数九年五か月で昇格した一方、松本秀明は同時点で年齢二九歳一一か月、勤続年数九年五か月でもチーフに未昇格であるところ、チーフ昇格に関する一律の形式基準が見出しえないことは前記認定のとおりであり、井上及び本田の昭和五四年三月の時点での年齢及び勤続年数は、井上がそれぞれ三一歳、六年四か月に、本田がそれぞれ二八歳八か月、六年一〇か月になるが、原告会社に正社員として採用されたのはそれぞれ昭和四九年四月と昭和五一年四月であり、正社員としての勤続年数は昭和五四年三月の時点ではそれぞれ四年一一か月と二年一一か月にとどまっていた。

以上に照らしてみると、井上及び本田を昭和五四年三月の時点でチーフに昇格させないことが、直ちに原告会社の人事権の裁量の範囲を逸脱し、組合員であることを理由とした不利益取扱いになると認めるには不十分である。

(4) 昭和四八年入社の矢部、賀川、山口及び柏原について

証拠(<証拠・人証略>)に照らし、矢部、賀川、山口及び柏原の日頃の勤務実績や能力が特別に劣っていた事実は認められないものの、前記3の(二)のとおり、原告会社においてはチーフ昇格までに要する勤続年数ないしは年齢が設立以後徐々に高くなっており、同期入社者の中には北原重幸のように組合員であるにもかかわらず勤続年数が六年で昇格している反面、同期入社者中に非組合員はいないが、昭和四六年入社の非組合員の松井伸和が昇格の際に年齢三〇歳九か月、勤続年数七年九か月に達しており、昭和四九年に入社した非組合員中では、経験者として中途入社をした大庭宏和を除けば、河村己代治が昭和五九年三月に三〇歳二か月、勤続年数九年五か月で昇格した一方、松本秀明のように同時点年齢二九歳一一か月、勤続年数九年五か月でもチーフに未昇格であり、いずれも勤続年数六年、年齢二七歳を過ぎても直ちにチーフに昇格してはいなかったところ、矢部、賀川、山口及び柏原は昭和五四年三月の時点では、未だ勤続年数において六年にも達していなかった。

以上に照らしてみると、昭和五四年三月の時点で矢部、賀川、山口及び柏原をチーフに昇格させないことが、直ちに原告会社の人事権の裁量の範囲を逸脱し、組合員であることを理由とした不利益取扱いになると認めるには不十分というべきである。

(5) 以上からすれば、結局、西村、田中、間宮、柏渕、田沢、清水及び林について昭和五二年三月一日付けで、新家、井上、本多、矢部、賀川、山口及び柏原について昭和五四年三月一日付けで、それぞれチーフ職への昇格についての個別の不利益取扱いがなされていたと認めるには不十分であるというべきであるから、これと異なる本件命令は失当である。

三  課長への昇格を命じた本件命令の正当性について

1  課長への昇格基準・昇格手続

(一) 課長への昇格手続は、<1>まず、部長ないしは副部長が、チーフの中から、もっぱら能力本位で、昇格候補者を選び、具申(推薦)する、<2>次いで、前記候補者について、部長会で各部間の調整を行い昇格候補者を決定する、<3>そして、取締役会で昇格者を決定する、とされており、原告会社には、チーフの場合のように年齢や勤続年数といった形式的な昇格基準は存在せず、他方、能力に関しては、チーフのような技術的能力のみでなく、原告会社に対する貢献度等も評価の対象とされていた。

(二) 課長昇格の最終的な決定権限は取締役会にあるので、<1>の具申(推薦)があることが必要条件であるが、これがあっても、ポスト数の制約などから、必ずしも昇格が実現するとは限らず、部長会の決定した候補者に対して、取締役会が再度説明を求めるなどの注文を出すこともあった(<証拠・人証略>)。

2  課長への昇格状況

(一) 昭和五五年三月当時、課長以上の職位に在籍していた合計二三名の昇格経歴と、右二三名の課長昇格に要したチーフ滞留年数は別表四(略)のとおりである。そのうち、小西昇と平田義昭の課長昇格時期及びチーフ滞留年数を除いては当事者間に争いがない。小西昇の課長昇格時期については、昭和四九年との記載のある証拠もあり(<証拠略>)、昭和四七年二月の時点での原告会社の職制表(<証拠略>)にも課長待遇との記載があるが、昭和四七年の昇格を否定する原告が提出した書証(<証拠略>)中にも昭和四七年二月に課長に就任した旨の記載のあることからすれば、同人は昭和四七年には課長の職位に昇格したもの(したがってチーフ滞留年数は三年)と認めることができる。平田義昭については、被告は、証拠(<証拠略>)によると、同人は昭和五二年から課長待遇になり、課長職相当の役職手当を得ていることは認められるものの、課長昇格が発令されたのは昭和五四年であるから、右時点を基準とすればチーフ滞留年数は七年になると認められる(別表二及び三の「課長昇格」欄記載の数値も右認定をもとに記載したものである。なお、平田義昭と同期に入社した小西克彦については、課長昇格が昭和五七年であるため別表四には記載されていないが、証拠(<証拠略>)によれば、昭和五二年に課長職相当の役職手当を得ていたことが認められる)。

(二) ところで、原告会社における課長への昇格については、別表一の1、2のとおり、設立後課長等の管理職のポストの数が徐々に増加していたが、その実際の昇格状況をみると、別表二及び三記載のとおりであって、課長へ昇格した者についてもチーフ滞留年数には個人差が著しく、入社年度の遅い者が早い者より先に昇格することもあり、昭和四一年及び昭和四二年に入社した非組合員はすべて課長に昇格しているものの、昭和四三年以降に入社した者については、非組合員であっても、昭和五九年までの間に課長に昇格していない者も認められるのであって、一定年限を経た者を自動的に当然に昇格させるといった機械的な運用がされていたものではないことが認められる。

以上からすれば、チーフ滞留年数、年齢及び勤続年数の平均値を昇格基準とすべしとする参加人の主張が採用できないのはもちろん、一定のチーフ滞留年数を課長昇格の最低基準として一律に組合員に当てはめることもできないというべきである。

3  昇格格差の有無

(一) 前記二の3に認定のとおり、原告会社おける課長の職位は組合員の地位と矛盾抵触するものではないから、たとえ組合員であっても、課長に昇格させることは可能である。しかし、原告会社においては課長以上の資格と組合員の資格とは矛盾抵触するとの見解がとられており、したがって、課長以上の組合員は存在していないため、組合員と非組合員との課長以上への昇格状況を全体として比較すれば、両グループには格差があることは明らかである。

(二) しかしながら、原告会社における課長の職位は、労組法二条但書一号に該当するいわゆる利益代表者とはいえないとしても、チーフとは異なり、単なる賃金体系上の格付けではなく、原告会社の管理職の一つとして位置づけられて、前記一の1(三)以下のとおりの職責を有しているものである。右のような管理職への昇格については、当該会社において一定の年齢、勤続年数等の形式的な基準を満たした者を機械的に昇格させるという運用がなされている場合は格別、一般的には、企業の運営のために管理職のポストをどの程度設けるかを決定するについてだけでなく、昇格人事において、その限られた管理職ポストに起用する者を選定するに当たっても、使用者である会社は、その者の執務能力、協調性、指導力等諸般の事情を考慮して当該役職の適格者であるかどうかを決定するについて、広範な裁量権を有しているというべきである。

(三) そこで、本件命令が昭和五二年三月一日付けで課長への昇格を命じた木下、山添、寺本、高橋、河合及び西木について、原告会社が右時点で課長に昇格しなかったことに関し、個別に検討することとする。

(1) まず、木下、山添、寺本、高橋及び河合の復帰者については、前記第二「事案の概要」の2(一)記載の復帰時の和解の条項中には、原告会社は復帰者を昭和四一年三月一日に遡って採用するとの内容のものがあるが、実際に復帰者が原告会社で就労を開始したのは昭和四七年三月一日であるから、右和解により、右条項が存在することをもって、管理職への昇格につき、他の昭和四一年度の入社者と同じ処遇をしないことが直ちに人事権の濫用になるとはいい難いばかりでなく、復帰者がチーフに昇格したのは復帰三年後の昭和五〇年三月に至ってからなのであるから、仮に原告会社が復帰者につきチーフ昇格二年後に過ぎない昭和五二年の時点において課長に昇格させなかったとしても、前記の課長昇格人事に関する原告会社の有する裁量権につき濫用があって、組合員であることを理由とした不利益取扱いをしたとまでは認めることはできず、復帰者の職務遂行能力に関して他のチーフと比べて特段劣っているとは認められないからといって、右判断を覆すに足りない。

(2) 西木については、昭和四二年に原告会社に入社し、約三年後の昭和四五年にはすでにチーフに昇格し昭和五二年の段階ではチーフ滞留年数は七年となっており、また、(人証略)の各証言に照らしても、西木は少なくとも職務遂行能力に関しては他のチーフと比べて特段劣っているとは認められず、昭和四二年に入社した西木を除く社員(非組合員)はその後すべて課長に昇格していることが認められるにもかかわらず、西木だけがチーフ職に据え置かれたままとなっていることについては、前記第二「事案の概要」の二2に認定のとおり、原告会社と組合との対立関係が激化していた事情を考え合わせれば、それが会社の不当労働行為意思に基づくものではないのかとの疑念も存するところである。しかしながら、本件命令は、昭和五二年三月一日の時点での西木の課長昇格に関する不利益取扱いを認定し、同日付けで課長職への昇格を命じているものであり、右のような不当労働行為が認められるためには、原告会社に不当労働行為意思がなければ右の時点で西木が当然課長へ昇格していたと認められる場合でなければならないところ、前記のとおり、原告会社において、課長昇格に関しては、一定年限を経た者を機械的、自動的に昇格させる慣行は存在せず、同期入社者中の平田義昭と小西克彦については、昭和五二年に課長待遇の役職手当てを受けるようにはなっているものの、実際に課長に昇格したのはそれぞれ昭和五四年(平田義昭)と昭和五七年(小西克彦)になってからであるし、翌昭和四三年に入社した非組合員中の田中裕訓は課長に昇格しないまま昭和五四年に退職しており、その翌年の昭和四四年に入社した者については、非組合員でも昭和五九年までの間に昇格した者は八名中五名(三〇歳をすぎて経験者として中途採用された二名を含む)であって三名はチーフに留まっており、課長に昇格した者の昇格年についても、昭和四八年から昭和五九年までの間に散在し、大幅に差異があることが認められるのであり、原告会社の有する管理職人事に関する広範な裁量権に照らせば、未だ昭和五二年三月一日の時点においては、西木を課長に昇格させないことが、直ちに人事権の濫用に当たり、組合員であることを理由とした不利益取扱いであるとまで断ずるには不十分であるというべきである。

(3) 以上からすれば、木下、山添、寺本、高橋、河合及び西木につき、それぞれ昭和五二年三月一日付けで、課長への昇格についての個別の不利益取扱いがなされていると認めるには不十分であり、これと異なる本件命令は失当である。

第四結論

以上によれば、本件命令の主文第Ⅰ項は、原告会社による組合員への個別の不利益取扱いを前提とするものであるところ、右不利益取扱いを認定するには不十分であるというべきであるから、同項1(1)ないし(3)で副部長、課長ないしチーフへの昇格を命じ、またこれを前提として同(4)において役職相当額の賃金の遡及払いを命じたことは、いずれも労働委員会としての裁量の範囲を逸脱した違法のものというほかはない。

よって、原告の本訴請求は理由があるのでこれを認容し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 遠藤賢治 裁判官 吉田肇 裁判官 佐々木直人)

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